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「自分のライフハック」を作る

楽しさを作ることに楽しさがあるという循環構造に目を向け、「自分の道具」作りは楽しくまた始めやすいことも確認した。

ところで、「自分の道具」を作るとは、「自分のライフハック」を作ることである。あるいは、ライフハックとは「自分の道具」を作ることである、と言い換えてもいい。「他人の道具」を使うことがライフハックではない。

ライフハックという体系があり、そこにある技法を一つひとつ習得していき、最初は免許皆伝に至る、という流れをイメージしてるなら、それは一度捨てておこう。捨てるのがマズそうなら「保留」や「未使用」に置いておくのでもいい(これ自体がライフハックである)。

そのような免許皆伝型の(あるいは、知識ドネルケバブ・モデルの)方法では、リーチできる対象は極めて限定的である。ライフは一人ひとり違っているのだから、これは当然だろう。他人とまったく同じ人生を歩む人はいない(たとえ一卵性双生児であってもそうだ)。よって、人生をうまくやるためには、具体的な方法としては差異が必要である。

さらに言えば、どういう状態になっているなら「うまくいっているのか」を判断できるのも当人しかしない。だから、自分のライフハックは、自分で作るしかない。これは私たちの個性を認めるならば、基本的な前提となる。逆に言えば、私たちが単一の方法で皆うまくいくと説くのはこうした個人の差異を抹消する価値観を持っていると言える。それはこの日本社会では見えない前提として機能してきたのかもしれないが、私はそれに反旗を翻したい。あなたの方法で良いのである。これは一つの確固たる宣言であり、なんなら宣戦布告ですらある。

ともかく、そのような視点に立つとき、ライフハックは師匠の教え通りに何かをすることではなく、自分の目の前にある課題に対して、自分で介入し、好ましいと思える変化を呼び込むことだと言える。個々のノウハウは、そのために使用される。

とは言え、この単純な話にはやっかいな部分がたくさん眠っている。まず課題が認識できるかどうかがある。人間は身の回りの環境に慣れ、それを「当たり前」だと感じるようになるのであり、それはつまり課題が不可視化することを意味する。不都合があっても、それを変えられるものだと感じなくなるのだ。

逆に言えば、「自分のライフハック」を作っていくためには、自らの課題に敏感になることが必要である。目の前の状況に対して、何か変えられることがあるのではないかと貪欲になるのだ。そのような知覚・感覚があってこそ、「自分のライフハック」はスタートできる。

また、「自分で介入する」ことも、思うほどには簡単ではない。ダイエットの例を挙げるまでもないが、変えようと思ってすぐさま変えられるくらいなら、この世に悩む人などいなくなるだろう。一方で、循環的にはなるが、そのような自己変革の可能性すらも、ライフハックが提供するものだ。逆に言えば、そうした循環性があるからこそ、僅かの変化が大きな変化を引き起こすことが期待できる。ライフハックが「小さな習慣」と相性が良いのもこのためである。

ただし、以上を解決したとしても、大きな問題が残る。それはどのような状態が「好ましい」と言えるかの判断を、最終的に自分で下すしかない、ということだ。これは長らく他者評価に身をゆだねていた人にとっては、ずいぶんハードルが高い行為だろう。そして、ここを避けているかぎり、どれだけ個々のライフハックの知識があろうとも、「自分のライフハック」は作れないことになる。

追加的に言えば、どれだけ自分の「好ましい」変化が自覚できたとしても、自分が身を置いている環境がそれを是としない可能性が残ってしまう。これはひどく辛いものである。家庭環境や職場など、ある程度強制力が強く感じられる場所において、そのような否定性を突きつけられると、ストレスばかりがたまってしまう。いっそ、そんな変化など想像できない方が良かったのではないかとすら思ってしまう。

私がまどかのようにキュゥべえに願い、この世界からそのような環境を一つ残らず消し去れることができたらいいのだが、一人の物書きでしかない人間には、そのような機会も気概も持ち合わせがない。

それでもなお、自分が変えられる領域に、自分のライフハックを(あるいは自分の道具を)持ち込むことには意味があると私は主張したい。そのような創造が私たちにもたらすものは、一時のバズりよりも遙かに価値があるのだと私はそう信じているからだ。

階層の革命的変化

さて、上記のようなさまざまな問題を抱えながらも、私たちは「自分のライフハック」を作り出す旅に出ることになる。しかし、その旅は、ごく平凡な知識の学習から始まることだろう。たとえば、タスク管理であればGTDを学ぶ、といったことだ。

その際は、可能な限り素直にその手法を実践し、著者が提案する方法に沿って進めていくことになる。でないと、学ぶものも学べない。斜に構えていると、学習効果は半分以下である。だから、まっすぐにそれに従うことになる。自分をそのノウハウの下位に位置づける。

とは言え、これは旅路であり、途中経過でしかない。このまま同じ状態が続くわけではないし、続けることが望ましいとも思えない。GTDにはGTDが解決できる問題があり、あなたにはあなたが解決したい問題があるはずだ。だから、どこかで一度階層を上がる必要がある。自分をシフトアップさせるのだ。そして、その後に既存のライフハックを「位置づける」ことになる。

この逆転は劇的である。あなたは師事する人ではなく、指示する人になったのだ。学んだノウハウをそのまま使うこともできる。何かを捨てることもできる。どこかを変えることもできる。想定される優先順位を崩すこともできるし、別のノウハウと組み合わせることもできる。

自分の配下のアウトラインは、あなたの裁量下にある。あなたが──自分勝手に──その按配を決めていいのだ。日本社会で暗黙に忌避されるのが、この「自分勝手に」という部分だろう。それはたとえ意識されていなくても脱共同体的であり、言ってみれば均一的な価値観を尊ぶムラ社会への離別である。当然反発の声は上がってくる。

ただし、その規範性は、周りの言葉として鼓膜を震わせるのかもしれないし、単にあなたの内部の心の声として──「こんなことをして大丈夫なのだろうか」──湧き上がってくるのかもしれない。

しかし、あくまでこれは「自分の道具」であり「自分のライフハック」である。別に社会を改革しようと言っているわけではない。新しい民主主義の形態を提唱しているわけではない。単に、自分の道具を、ひいては人生を作っているだけなのだ。だから、自分勝手にやって構わないだろう。

一方で、これはたしかに革命でもある。大富豪で同じ数字が四枚提出されたときのように、階層構造の上下がひっくり返ることになる。他人の方法から、自分の方法へ。劇的な変化であろう。

私の楽化主義としてのライフハックは、この革命を喚起するものである。小さな革命。ポケットの中の革命。この社会が、今度も引き続き個人の生きづらさを解消せず、よりいっそうその画一的規範性を押し付けようとするときに、「そうではない道」を示すこと。オルタナティブなやり方を確保しておくこと。

たぶん大げさな話に聞こえることだろう。しかし、自分の目の間に課題があり、それは自分の手によって解決できるのだと感じられることは、極めて大切な感覚だと思う。極端に言えば、それは意志によって世界を上書きすることだからだ。もし、この世界においてまだ「個人の意識」なるものに価値を見出すなら、おそらくその点しか残っていないとすら思う。

話が『ハーモニー』方向に逸れてしまうのでここでいったん話を収めておくが、ライフハックの形はそれぞれの人の中で固有であり、単一のものがないからこそ、ライフハックたりうるという点は強調しておきたい。にも関わらず、そこには共通した音調があるのが面白い点なのだが、それはまた次回に譲ろう。

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