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流通するノウハウの偏りとノウハウのストーリーについて

人はそれぞれに違う存在であり、しかし共通点もある。それは人類種という大きな枠組みの共通点だけでなく、ある種の傾向を同じくする人たちという共通点でもある。

世の中には、こだわりが強すぎてやりすぎてしまう人たちがいる。
世の中には、不安が強すぎて行動に取り掛かれない人たちがいる。
世の中には、面倒くささが強すぎて期待される行動ができない人たちがいる。

それぞれ原因が違うので、適切なアプローチも異なるだろう。すべてを一つの原理で「説明」してしまうことは可能だが、その正当性は疑わしいし、なにより実際性が乏しいだろう。

以上は考えてみればきわめて自明な話である。現代を生きる私たちは、統一的な「人間理論」に従ってケアを試みるのではなく、それぞれの処方箋を見つけることができる。それが個人が尊重される時代でもある。

一方で、情報には偏りがある。ごく簡単に言えば、「ごく簡単に強く断言される」ほど流通しやすくなるのだ。キャッチなーコピーがその代表例であろうし、何かしらのノウハウについても同種の傾向がうかがえる。金言(箴言)は、ダラダラ書かれていては台無しである。

よって、まずメディア(媒体)的な偏りがある。私たちの耳に届くものは、ひどく誇張されているわけだ。

それだけではない。世の中には、思い込みが強い人とそうでない人がいる。さて、「このノウハウはたしかに効果がある」と強く思い込む人はどちらだろうか。

ピュアにシミュレーションしてみると、この社会向けてたしかだと強く断言して物事を述べる人は、思い込みが強い人の方が割合が多いように思える。

そうすると、私たちはただ思い込みが強い人が必要としている──その人の問題解決のための──ノウハウを頻繁に耳にすることになる。はたしてそれはあなたに必要なものなのだろうか。少なくとも、一度そう考えてみることは大切だろう。あるいは、そのように自然に考えてしまう人は、そうしたノウハウの必要性からは遠く離れていると言える(つまり、思い込みが強くないと言える)。

はっきり言って話をややこしくしている自覚はある。そういう細かいことはごちゃごちゃ言わずに、「万人が、これを使えば、必ずうまくいく」と言っていれば楽だし、通信網を通るバイトの数も減らせる。環境的配慮が行き届いたノウハウの伝達である。

一方で、個人的には「インターネット的」というのは、個別的でありニッチであることであるのではないかとも考える。非マスメディア的なメディアの在り方が許容される世界こそが、私にとってのインターネット的である。それ自身がマスに成り代わることではなく、マス的指向性を持たないメディアの存在可能性がありうる場所。それがインターネットではないか。

とすれば、環境的配慮が行き届いていないにしても、もっと個別的なノウハウの提示があってもいいのではないか。人の価値は等しく、その権利もまた平等であるにしても、個々人が異なった特徴と傾向を持っていることまでは否定できないだろう。むしろそれを否定することは、公正さを減少させる気すらする。

だからこそ、ノウハウにはストーリーが(ストーリーテリング)が大切なのだ。その人が、どのような状況にあり、どんな解決を求めてそのノウハウに至ったのか。そうした「判断材料」を提供することこそが、ノウハウの具体的な手順よりも先立って必要なものであり、そして有用なものでもある。その理解を欠いたままでは、「楽しくする」ことなど不可能に近いだろう。

よって楽化主義では、ノウハウは大切にするがノウハウ至上主義には至らない。むしろ、その運用の仕方にフォーカスする。

どのようなノウハウを使っていても構わない。その運用が当人の問題を解決しているならば、それこそが最適解なのである、と。

当然、そのようなジャッジメントには、当人が「当人の問題」を把握しておく必要がある。存外にこれが、一番難しい課題なのかもしれない。

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