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現実とネットのささやかな境目

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CKさんのブログを読んで少し考えた事を書こうと思う。

もし、「ネット世代」「PC世代」というものが存在するならば、現在はそれが複雑に入り混じった社会であると思う。

大きな流れでは「PC世代が」少しずつ減ってゆき、やがて、全人口が「ネット世代」で埋め尽くされることになるだろう。

が、ここで、ネット世代、PC世代というものについてもう少し考えてみたい。

簡単言えば、PC世代というのはネットをあくまで特別なものとして捉えていて、ネット世代はそれをごく自然に生活の一部として捉えている。

ある人々にとって「ネット」というのはどこまで言っても異物であるし、ある人々にとっては当たり前のものである。

これは、少しさかのぼっていけば、PC世代と手書き世代(とあえて呼んでおこう)という構造に見ることができる。

過去から、現在に向けて少しずつPCを触ったことのない人々が減ってゆき、PCの操作を格別難しいと感じない人々が少しずつ増えてきている。

やがて、多くの人がそれ無しでは社会生活がうまくできない、というレベルまでいってもおかしくないだろう。

これと同じことが、ネットでも起こる。
好む、好まざるにかかわらずネットというものが生活の中に入り込んでくる。その存在を暗黙に肯定し、信頼していくしかない社会がおとずれるのだろう。

それは間違ったことなのだろうか。
今のところ判断することは難しい。


前にもどこかのエントリーで書いたが、ネットは「仮想的存在」ではない。あるいは、ネットと現実は対立構造を持たない。

一番大きな「現実」というものの中に、ネットというのは入り込んでいる。

PCからネットにつないでいる間、あなたが別の人間になるわけではない。目に見えないデータが回線を行き来していても、それを表示するPCは現実に存在し、それを読み、あるいは書きしている間も時間は少しずつその歩みを進めてゆく。それは執行官が死刑囚を絞首台引きずっていくかのように無情である。

ネットの匿名性というのも100%完璧でない。
別の人間でいられるような気がするが、それも錯覚である。

あくまで、ネットは「道具」の一つでしかない。
コミュニティーというのも一つの「道具」である。
精神的満足感を「ネット社会」でしか得ることができないならば、依存症といっても言い過ぎではないと思う。

なんだか、まとまらなくなってきた。

結局のところ、あったように見えた現実とネットのささやかな境目というのは、まぼろしと言ってよいもので、それが少しずつその姿を消しつつある、というのが現状なのかもしれない。

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