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変わりゆく変わらない世界の中で

世界はそこにあり、しかし世界はそこにはない。

私たちを取り巻くのは、物質であり、分子の集合であり、その分子を構成する原子やらなんやらの集合である。そして、そうした集合を世界だと捉える私たちがある。原子の集合である私たちが。

私があるから世界があるのか、世界があるから私があるのか。

レンズをもっと拡大していけば、量子の世界に突入し、そこでは確率論的な記述しか不可能となる。それを観る人の存在よって、はじめて存在が固定する世界。

私があるから世界があるのか、世界があるから私があるのか。

この世界は所与のものである。私たちが自我を獲得したそのときには、もうすでに世界はそこにあった。あるいは、あったかのように感じられる。

この世界は巨大である。私たちは巨大な構造物で暮らす小人であり、またその構造物の一部である。もはや何者をも変えがたいような硬さが世界には備わっている。かのように感じられる。

しかし、それは真実なのだろうか。

「世界を愉しむ」というコンセプトは、ありのままに世界を受け取る姿勢ではない。そこにある世界を自らの手によって読み替えていく姿勢がある。

世界は変わらない。しかし、世界は変わる。

明らかに矛盾するこの要素は、しかし観測者によってどちらも成立しうる。

そのようにインテグラルな「捉え方」を再配置すること。それが「世界を愉しむ」ことである。

むろん、そのインテグラルな「捉え方」とは、世界そのものである。

世界を上書きする。

ハック。

この世界は素晴らしく、そしてくだらない。非道であり、理不尽であり、不条理に満ちあふれている。

一方で、筆舌にしがたい慈愛と祈りにも満ちている。それを見出そうとするならば、すぐさまそれに気がつけるだろう。

善意の観測者効果。

それはたしかに存在しながら、極めて脆いものでもある。目をこすったその瞬間に消えてなくなるような儚げさを備えている。だから、油断してはいけない。気ままに、気楽に、自由に、何も考えずに、ありのままに生きていれば、おのずと見つけられるようなものではない。見つけようとする意志が必要なのだ。

Find the light.

万物は流転し、しかし川の流れは変わらずそこにある。H2Oは姿形を変えながら、世界中をめぐり歩く。

世界は壊れ得るが、だからこそ世界は組み立て得る。絶対に切れない物質で、一体どのような建築が可能だろうか。壊せることと、組み立てられることは表裏一体なのである。あとは、そこに何を見出すかの違いがあるだけだ。

究極のところ、真理なんてどうでもいいのである。すべての真理が世界に否を突きつけてなお、その世界を新しく読み替えていくこと。それが「世界を愉しむ」ことである。

そこには絶望などいった停滞は存在しない。むろん、この世界は絶望などからほど遠いなどと楽観したいわけではない。むしろ、現実をつぶさに見つめれば、絶望の種などいくらでも見つかるだろう。ニュースのエコーチャンバー。

しかし、もう一方の現実として、私たちは今この世界を生きている。そんな不可思議なことが成し遂げられているのだ。自分の系譜を一つずつ辿り、世界中の歴史的出来事を俯瞰し、世界の技術と問題解決が、いかにたまたまによって成立してきたのかを考えれば、その奇跡を思い描くことができるだろう。

Find the light.

絶望は、定められている。だから、本当にもうどうしようもなくなるときまで取っておけばいい。それは遅かれ早かれやってくるのだ。だから、距離を置けるうちは置いておく。それは決して逃げではない。なぜなら逃げることは叶わないからである。私たちは、いずれ絶望に追いつかれる。であれば、その一時まで全力でこの世界を愉しんでいくのである。

ライフハック。

そう。それをなんと呼ぶのかといえば、やはりライフハックがふさわしいだろう。

この世界はライフハックで満ちている。エントロピーは無情に増加しつつ、私たちは集い、形成し、秩序を組み立ててきた。私たちは社会的である以上に、人間的である。共同で作業する、という目的意識以上の何かが私たちの中には宿っている。

その炎のような力は、決して目をつぶることを許容しない。それでいて、そこにはかけがえのない温かさがある。記憶に宿る温かさ。おそらくそれは、エネルギー保存の法則を若干はみ出ているだろう。世界を改変する力である。

私たちは、とんでもない世界に生きている。しかし、私たちは「私たち」であり、そこでは不思議な力が生まれている。

なにもスピリチュアルな話でない。テレビを消して街に出れば、頭がくらくらするような風景に出会えるだろう。一つのビル、一つの畑、一つの仕事、一人の人間、……。一つひとつ数え上げていけば、それだけで人生が終わってしまうようなものたちの集まり。社会的集合。

私があるから世界があるのか、世界があるから私があるのか。

その問いは、簡単に無効化されるだろう。なぜなら現に私がいて、世界はそこにあるからだ。だからそこから始めればいい。

私たちの営みを、可能な限り何度でも。

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