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データがファイルであり、自分がそれを扱えることの自由さ

ライフハック

Obsidianはデジタルノートツールですが、他のツールとは違ってデータをローカルに保存します。他のツールは、クラウドに保存し、しかもそれがどんな形式になっているのかはユーザーにはわかりませんし、わかったとしても「手を出せない」ことが大半です。

この場合、ユーザーはそのツールを通してしかデータにアクセスできません。私たちから見て、主となるのはそのツールそのものです。

一方で、Obsidianはローカルにデータを保存し、しかもそのデータがmdファイルという一般的なファイル形式を採用しています。mdファイルは、プレーンテキストの一種であり、作成するために特殊なアプリケーションは必要ありません。ごく普通のテキストエディタでも作成できますし、なんならターミナルで touch hoge.md とかやっても作れます。

単に、テキストファイルの拡張子が.mdになっていればOKなのです。別の言い方をすれば、ユーザーはObsidianを使わずにデータを作成できるだけでなく、Obsidianを使わずにそのデータを閲覧することもできます。

この場合、ユーザーはそのツールを通さなくてもデータにアクセスできるようになります。私たちから見て、主となるのはデータであって、ツールはそこに従属する要素になります。

この点は、実質的にもそれ以外にもさまざまな意味を持ちます。

データは誰のもの?

まず第一に、明日突然ツールを提供する企業がつぶれたり、ハッキングされたりしても、自分のデータは自分のパソコンに残っています。しかも、そのツールを使わなくても閲覧や編集ができます。ちょっと不便にはなるでしょうが、言い換えればちょっと不便以上に被害が拡大することはありません。

この点は、毎日バックアップしておく(ローカルにもデータを保存しておく)や、そもそも個人のパソコンよりも企業のサーバーの方がセキュリティがしっかりしているなど、さまざまな対応や反論があるので、利用を控えるという話にはつながりません。

ただ、データの所有がどうなっているのかははっきりと示しています。

クラウドだけにデータがある場合、それは銀行にお金を預けているのに相当します。所有権は間違いなく私にありますが、今急にお金が要りようになっても、それを即座に取り出すことはできません。ATMなどの装置を「通す」必要があります(これはツールのAPIに相当するでしょう)。そしてもち、急に倒産したら、お金が返ってくることはありません。銀行口座においてその心配があまり必要ないのは、最低限の政府の保証があるからと、お金は量さえ合ってればそれがどんなものであるかは問わないからです。

しかし、情報は違います。私が保存したノートがかりに1GBだったとして、「じゃあ、1GBのハードディスクを代わりにあげますね」と言われても困っちゃうわけです。

もう一度言いますが、これはクラウドツールを忌避する話ではありません。むしろ、銀行口座をあたり前に使っているならば、クラウドツールだってあたり前に使えるはずです。サーバーもバックアップされているはずですから、そんなに簡単に困ったことになることはありません。単に、「データを自分で所有していないとはどういうことか」を検討しているだけです。

そして、ここまで検討してきたように、データを自分で所有していないと、ひどく極端な自体のときには困ったことになります。そうした自体は、ほとんど起こらないでしょうが、絶対に起こらないとまでは言えません。そのことは最低限引き受けて利用する必要があります。

データの上に立つ

続いて実質的な問題です。データがクラウドにあって、しかもAPIが開放されていない場合、ないしはローカルに保存するけれども、それがユーザーからは簡単に操作できない形になっている場合は、どのように回り道をしたとしても、結局はそのツールを通さないと、そのデータが扱えないことになります。

たとえば、Microsoft Wordで作成される.docxファイルは、Microsoft Wordを持っていなくても読み書きできます。もちろん、リッチテキストを扱えるツールが必要ですが、選択肢はいろいろあります。これがプレーンテキストファイルなれば、いわゆるパソコンならほぼどれでも問題なく触れることになります(細かいツッコミはスルーします)。

特定のツールを通さなくても、そのデータが扱えることは、突然ツールが使えなくなっても大丈夫なこと以外にも、他のツールとの連携や、プログラミングによる自動操作への扉を開きます。この点が、どちゃくそ大切です。

データがアプリに閉じこめられている場合、ツールが主となりデータは従となることは確認しました。逆に、データがツールから開放されると、その構造が逆転するだけでなく、さらにその上にユーザが位置します。

私を視点として、さまざまなツールが、同一のデータ形式によって「連結」されるのです。あくまで感覚的なことでしかありませんが、そうした連結の「感触」は、データがアプリに閉じこめられている状況で、なんとかインポートとエクスポートを駆使して、データを「やりくり」するのとはまったく違った感覚があります。データが閉じこめられている場合は、すでにツールは決定しており、そのフィールドの中で「工夫」をしているだけですが、データが開放されると一つ大きいフィールドにおいて「工夫」を発露できるようになります。

いろいろな、「自分のやり方」を試せるようになるのです。

たとえ全てでないにしても

そのような開放こそが、全ユーザーが求める楽園である、などとのたまうつもりはありません。どう考えたってそのようなフィールドワークは面倒であり、単に情報処理を手早く済ませたいだけならば、不要どころか有害なものですらあるでしょう。

一方で、そうしたユーザーがどれだけ圧倒的多数を占めているにしても、そうでない状況を望むユーザーもいます。「なんか違うんだよな〜」と違和感を覚えるユーザーです。そうしたユーザーにとっては、たとえ多少面倒でも、より広いフィールドで試行錯誤を続けていけることが大きな価値を持つでしょう。

そこに商業的な圧倒的成功が見込めないにしても、そうした創意工夫が可能な生態系が残っていくことは、多様性の確保、という言葉の真なる意味においても重要だと個人的には思います。

一つの選択肢として

ユーザーとツールとデータの幸せな関係がどのようなものなのかは、現時点ではまったくわかりません。クラウドに寄せるのも、ローカルに寄せるのも、それぞれにメリット・デメリットがあるのが実情でしょう。

しかし、それはそれとして、「自分でデータを持っておく」ことで、それまで以上の試行錯誤や工夫が可能になる点は間違いありません。そうした工夫や試行錯誤は、ツールが用意した土俵の外に飛び出ることを意味します。その外はまったく整備されていないので、どうやって進んだらいいのかはわかりませんが、広大なインターネットでは、たまたま自分と似たような方向を進もうとした人たちの結果報告を受け取ることも(稀に)起こります。そうしたものをヒントにしながら、自分なりに歩んでいくことはできるでしょう。

クラウドが正解か、ローカルが正解かは簡単には答えがでません。どれだけローカルが魅力的に見えても、クラウドに置いておくしか実現できないさまざまな「機能」があるからです(どう考えても、Obsidianは複数人Scrapboxプロジェクトの代替にはなりえません)。

だから適材適所を見極めて使い分けていくのが良いのでしょう。そして、クラウド真っ盛りの現代において(こうやって書いている私でもEvernote、Scrapbox、WorkFlowyは欠かせないツールです)、「そういえば、ローカルファイルという選択もあったな」とちょっと思い出せる程度には頭に留めておくのが良いのでしょう。


執筆に当たり参照されたメモ一覧:

アプリ化する世界への叛逆 – Unnamed Camp

ファイルによるクラウドからのエクソダス – 倉下忠憲の発想工房

第六十四回:Tak.さんとアウトライナー四方山話 – 知的生産の技術

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