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滴り落ちる考え方

水滴が落ちてくる。ポタッ、ポタッと僅かずつ、しかし確実に滴り落ちてくる。

やがてそれは溜まりを作り、一定の範囲を覆い尽くす。領土が形成され、水たまりや池だと認識されるようになる。

それでも水滴は止まらない。落ち続ける水滴は、やがて溜まりを飛び出して、さらに下層へと落ち込んでいく。そのプロセスが繰り返される限り、水滴の範囲は広がっていく。

考えが及ばない状態

うちあわせCastの第72二回で、粒度を揃えたくなる現象について意見を交わした。不思議なもので、私はこれを半ば過去を振り返るように語っている。DoMAを手にした今の私は、「粒度の揃い」を気にしなくなっているし、また自分がそれを気にしている状態を早期に気がつけるようになった。そうなったら、カウンターを当てるのは可能である。

しかし、DoMAを手にするまでは、そうした考え方にはなかなか至れなかった。自分が使う情報ツール全般において、「構造がきちっとしていなければいけない」という思いに囚われており、しかもそうした思考の制約を持っていることに無自覚だった。カウンターなど当てようがない。

驚くのは、私がTak.氏の著作に触れ、「シェイク」という考え方を持ち、自分の著作活動(本作り)でも「トップダウンとボトムアップの行き来が重要だ」と認識した上で実践していたにも関わらず、ことその対象が「自分が使う情報ツール」だとまるっとその考えが抜け落ちていた点である。

本作りにシェイクが役立つなら、「自分の使う情報ツール」に立ち現れる構造にだってシェイクが役立つはずではないか。少なくとも、そのような問題意識を持つことはそう難しくないはずである。なんといっても、その両者は同一のツール(この場合ではWorkFlowy)によって立ち現れているのだから。そのようなツール近接性があるならば、適用できる概念にも近接性を見出せるはずだろう。少なくとも、ずっと別のツールを使っているよりは、そのような概念の転用は起きやすいと想定できる。

しかし、結局DoMAに至るまでは、その着想には気がつかなかった。アウトラインとデイリータスクリストの共通性についてRe:visionで論じていたのだから、ほとんどもう後一歩だったはずだ。しかし、その一歩は壁に遮られたかのように長い間生まれてこなかった。不思議な事実だ。

・アウトライン→シェイク!
・デイリータスクリスト→シェイク!
・情報ツール→?

今こうやって整理してみると、なぜその転用可能性に気がつかなかったのかが疑問に思われるくらいに距離が近い話である。しかし、実際はなかなか転用できない期間が続いていた。それはきっと、この「情報ツール」を私の中の用語に置き換えれば「ライブラリ」となるからだろう。ライブラリは、毅然と、理路整然と、びしっと、きちっと整理されていなければならない、という信念(あるいは規範性)が私の中に根付いており、それが別様の使い方を遮断する壁として働いていたのだろう。

自分が「これはこういうものだ」と思っている限り、それを別様なものだと認識する転換は生じない。むしろ、自己の認識がそのような変転を無意識に抑制するようなところがある。「これ」が「あれ」に変わるならば、それに追従してやり方の可能性も変わってくるが、「これ」が「これ」で固定されている限り、なかなか視野の変転は生じない。

必要と感じる構造

たとえば、以前の私なら以下のようなアウトライナーの項目配置は気持ち悪くて仕方なかっただろう。

ほぼすべての項目が日付情報と共にその順番で並んでいるが、最後の項目だけは違っている。ある種特権的な位置づけにあるのだが、それが何食わぬ顔で並んでいるのだ。まるで図書館の一区画に突然コンビニが出てくるみたいな違和感がある。昔の私なら、日付情報を持つ項目を入れるための項目と、そうでない項目を切り分けるための項目を作っていただろう。

しかも、これだと粒度が揃っていないので、さらにそのために項目を作った可能性すらある。

実にすっきりした形になった。それと共に余計な構造が増えた。でも、昔はこれが「余計」だとは思っておらず、むしろ「必須」だと感じていたのだ。しかし、今はこういう構造を作らずに項目を並べていて、それでまったく問題ない。現状から比較すると、上記のような構造はまったく余計である。課長と平社員の間に、副々課長というポストを設けるくらいに余計なものだ。でも、そのことに気がつけないのだ。

別段、上記のごてごてとした構造が「間違っている」わけではない。もしそうであったら早々に気がついて改善していただろう。むしろ情報の分類としてはまったく正当なものなのである。しかし、実用に関しての必要性がほとんどない構造でもある。単に自分の「整理したい欲求」を満たすだけに存在しているのだ。

何より問題なのは、こうして上位階層を作ってしまったことで、その「見出し」に相当するもの以外は階層下に配置できなくなる点だ。新しいものを配置するためだけに、新しい上位階層が増えていき、どんどんと全体の見通しが悪くなり、制御不可能になっていく。本当に何度も繰り返した事態だ。

削ぎ落とす

「オッカムの剃刀」という有名な概念がある。「ある事柄を説明するためには、必要以上に多くを仮定するべきでない」とする指針のことだが、上記のようなごてごてとした構造にこそオッカムの剃刀をあてるべきだろう。つまり、ある情報を使用するためには、必要以上に多くの構造(階層)を作るべきでない、という指針を適用するのだ。

そのような指針においては、「情報を使えるかどうか」だけが重要な判定材料である。見た目が「完全に」整っていなくても問題にならない。使えないくらいに混乱していなければそれで十分なのである。

そういう理解にたどり着いたのは、やはりScrapboxの洗礼を浴びたからだろう。Scrapboxのすごさは以下の本でも簡単に論じてあるのでここでは割愛するが、整っていなくても情報は使えるんだ、という体験があったからこそ、思い切った思考の転換が可能であったことは間違いない。

つまり、DoMAはシェイクからの道筋とScrapboxからの道筋の私なりの合流点であると言える。水滴が溢れ出したのだ。

さいごに

水滴がこぼれ落ちて他に波及するためには一定の時間がかかる。外的な力の影響がその時間を短縮することはあるだろうが、超えるべき壁がある高さを持つならば、やはり時間はかかってしまう。しかし、時間をかければやがてはその壁を乗り越えられるとも言える。

その際必要なのは、水滴が止まらないようにすることだろう。せわしなく新しい理論に飛びついて、一つのことにじっくり取り組むことをしないなら、波及する範囲は限定されてしまう。それでは永遠に壁を越えることは叶わない。

私たちが扱える思考の道具は、たいてい応用範囲が広いものだが、私たちの認識自体がその範囲を狭めてしまう。私たちは、私たち自身に制約されている。だからといって、どこにもいけないわけではない。水滴はこぼれ落ち、やがては壁をも侵食する。

だからまあ、一つの物事にあるいは自分なりの感じ方に、じっくり時間をかけて取り組むのがよいのだろう。その方が、むしろある種の広さを手にできる可能性がある。

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