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「かもしれない」性の導入

『すべてはノートからはじまる』は自己啓発的要素を含みますが、それと同時に「自分」を逸脱することも示唆しています。「今の自分」に囚われないようにする、ということです。

たとえば、記憶の中では過去の出来事は常に「懐かしいもの」として想起されます。ああ、そういうこともあったな、という追認です。

一方で、ノート(手帳や日記を含む)を読み返したときはどうでしょうか。そこには懐かしさもある反面、ある種の驚きというか、「こんなんだっけ?」という発見もまた含まれるのではないでしょうか。たとえば、ちょっとしたことですごく落ち込んでいた事実を思い出すと共に、「こんなことで自分は落ち込んでいたのか」と驚く、といったことです。

同じ本を二冊読んだときにも似たような驚きはあります。たしかに読んだはずの本なのに、「えっ、こんなこと書いてあったのか」と新発見するのです。同じ文章から違った感触を受けることもありますし、ぜんぜん知らない文章を「見つける」こともあります。

あるいは、ある時期自分が強い確信を持って書いたことが、今読み返してみるとあまりにもぺらぺらであることに気がつく、ということもあります。実に不思議な感覚です。

とりあえず言えるのは、記録を介して情報と再会することで、その情報の再評価が行われる、ということです。そこで解釈が変わり、意味合いが変わることが起こるのです。

その体験がもたらすものはなんでしょうか。

「かもしれない」性

たとえばAという時点に書いた記録をBという時点に読み返したとしましょう。そこで解釈が変わったとします。そうした経験を積み重ねると、Bという時点で生まれた記録もまた、それより先の時点Cで新たな解釈が生まれる「かもしれない」と思えるようになります。現時点ではたしかにこれはXだと思えるが、もしかしたら将来の時点ではYだと思う「かもしれない」と。

絶対に変化すると断言できるわけではありません。今自分が感じている確信が薄らぐわけでもなりません。単に、違った可能性があるの「かもしれない」と思えるようになるだけです。

もちろんそれは、効率性の観点から言えば邪魔なものでしかないでしょう。情報的には冗長なものにすぎません。でも、その「かもしれない」が導入されることによって、「今の自分」を逸脱できるようになります。今の自分がまったく価値を感じていないものでも、もしかしたらそれには価値があるの「かもしれない」と思えるようになるのです。

逆に、そうした「かもしれない」性がないところでは、今の自分が下した価値判断のジャッジメントが絶対になります。自分が価値を認めれば価値があり、そうでなければ価値がないという断定が下され、それが固定されます。その判断がひどく偏っていたのならば、私たちはさまざまな価値の可能性を取りこぼしてしまうでしょう。

そして、どれだけ潤沢に知識を蓄えても、人間からバイアスを無くすことはできません。つまり、どこまでいってもある時点の人間が下す判断は偏ってしまうのです。才能も能力も勉強の量も関係ありません。私たちは、どこまでいっても愚かであり続けるのです(これが『すべてはノートからはじまる』のもう一つの大切なメッセージでした)。

ひらくための言葉

一つのシステムは、閉じれば閉じるほど効率的になります。自他を明確に切り分け、他者を道具としてだけ扱い、己の役に立つと思うものだけを許可していれば、ノイズは消失します。でもそれは、同時に「今の自分」に閉じこもってしまうことも意味します。

もちろん、そのような閉じた系が長期的に存続できるならばそれでも構わないでしょう。しかし、私たちは社会的動物であり、社会によって生かされている生物でもあります。つまり、現実的に完全に「閉じる」わけにはいかず、また閉じていると不都合も増えてきます。賢明な判断とは言えません。社会を壊してなお、自分の部屋に閉じこもっていられるのだと確信できるとしたら、まさにそれがバイアスを持つ存在だという証左でしょう。

ある種の「閉じこもり」をひらくこと。それが「かもしれない」性です。そして私たちは「かもしれない」の数だけ、可能性を(あるいは可変性を)手にできます。

それらについて何も価値がないと〈思った〉として、「いや、そうではないのかもしれないな」と〈考え〉られるようになること。もし、何かに「教養」という名前を与えるのだとしたら、そうした想像力こそがふさわしいような気がします。

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