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「自分」と「他人」

「自分」とは、「他人」とはなんであろうか、そこから考えてみたい。

字義どうりならば「自分」とは他人でないもので、「他人」とは自分でないものである。

が、それだけでは曖昧である。

大人になって周りを見渡せば、いちいち自分と他人の区別なんて考える必要のないものである。

誰がなんと言おうと、自分は自分だし、他人は他人である。

しかし、生まれたての赤ん坊は、その境界線がない。

世界は、自分と他人がごちゃごちゃに入り混じった状態で認識されているだろう。

自分という意識は、つまり自意識ということである。

本当は、自分=自意識と定義されるものであると思う。

ただ、情報化の拡大、伝達速度の向上によって、その事態が少しずつ変化しているように感じられる。

多くの情報にさらされ、自分の頭で思考する機会を少しずつ失っていく中で、自分と自意識の大きさが変わってしまう人々がいるように思う。

ある人は、限りなく自分が小さくなってゆき、自分を卑下してしまう。
ある人は、自意識が限りなく拡大してきて、何でもできてしまうような錯覚を得る。

この変化はどちらも自分<自意識の形になっている。自分>自意識になっていくのは、「悟り」というものである。情報化が進む中で、こちらのほうの変化はあまり見受けられない。
なぜかはわからないが。

「自分」を主張するためには、自分を知らなければいけない。自分の大きさを知るということは、自身ということにつながる。自分ができること、できないこと、したいこと、そうでないことをはっきりと知っていれば自信をもつ助けになる。

加速やブレーキの性能を知っている車に乗る場合とそうでない車に乗る場合と構図は似ている。

就職難、という言葉を良く聞く。
おいおい、と思う。

あなたが経営者(雇用者)であったときに、「あなたはなぜこの会社に就職したいと思ったのですか」という質問に自分自身の答えを出せないような人間を雇いたいと思うのだろうか。

大学生の年代の子を見ていると、自分が何がしたいのかわからない子が多いように思われる。
もちろん、自分なりの考えを持ち、計画を立て(多少無謀ながら)実行しようとしている子もいる。

そういう子を見ていると、明らかに差がある。
お金がある、ない、というものではない。

生きる意志というのであろうか、極端に言ってしまえばオーラみたいなものが違う。

モラトリアムという言葉がある。大学時代から就職するまでの間、ブレーキやハンドルの「遊び」に似ている期間。

その「遊び」をそのまま遊びと勘違いしている大学生がやたら目に付く。おいおいと。

そういう人たちは就職してからがんばるつもりなんだろうか?スタート前にウォームアップを始めている人間と、スタートの合図を聞いてから、急に体を動かし始める人間と同じ勝負ができると思っているのだろうか。

もし、自分にやりたいことがあるならば、大学時代は遊んでいる暇はほとんどないであろう。もしすることがなくなあなあ就職を考えているならば準備だけは早くから始めなければいけない。

準備運動もできないまま、「フリーター」という道を選択する(せざるえない)人がおおい。そして、そういう奴はたいてい「使えない」。

逆にお金を貯めるために志を持って仕事をするフリーターは非常に「使える」。が、大抵、長い間同じところに働いていない。時期がきたりお金がたまればちゃんと自らの進むべき道に(それがあっているかどうかは別として)進んでいく。

それが「フリーター」期間の使い方であろうと思う。

そういう「フリーター」は本当に忙しそうである。
おいおい体だいじょうぶか、と心配したくなってくるくらいいろいろ活動している。

バイトをいくつもこなし、資格の勉強をして、日々をおくる。

こういう子らにはいちいち「自分」ってナンだと思う、なんて聞かなくてもよい。というか聞いても明確な答えは返ってこないであろう。

実は、それがまともな答えなのであろう。正確に自分を定義できるのはもっと年齢を重ねてからであろう。

10代の頃から、「自分」「自分」と線引きすることだけを専念していれば、自分の大きさがわからなくなってくるのではないか。

もちろん、大人であれば「自分」がはっきりと理解できるか、というとそれも怪しい。自分というのは少しずつ死に、生まれてくるものであるからだ。

世の中が二極化していくとすれば、それは「自分」を持つもの、持たざるものとして分かれていくのではないか、とそういう風に最近考える。



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