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人に優しいノウハウへ

知的生産の技術

少し前から感じていることがあった。人に優しいノウハウの時代なのではないか、と。

たとえば『ときほぐす手帳: いいことばかりが続くわけじゃない日々をゆるやかにつむぐ私のノートの使い方』では、いわゆるバレットジャーナルがその通りにうまくいくわけではない、という話がなされていて、それに対するケアが提示されている。

あるいは『ライティングの哲学』でも、職業的に文章を書いている人間が、「うまく書けない」状況を赤裸々に語り、その中での工夫(あるいは悪戦苦闘)を吐露している。

一昔前なら、そんな話は「格好悪く」てできなかったはずである。もっと、ばしっと「できる作家」とか「できるビジネスパーソン」がアピールされ、そうして権威づけされたノウハウが販売促進に役立っていたはずだ。

その流れが少し変わりつつある。そんな感触を覚えるのは、この二冊の本が(Amazonストアで)たいへん良い評価を受けているからだ。

すんばらしくはない人間

別のところも眺めてみよう。

戸田山の『思考の教室』は「生まれながらのアホさかげん」を乗り越える方法を提示しているし、読書猿の『独学大全』は、ダメな自分を受け入れてその上で前に進んでいくために「外部足場」の構築を提案している。拙著『「やること地獄」を終わらせるタスク管理「超」入門』では、そもそもタスク管理が失敗を宿命づけられていることを、『すべてはノートからはじまる』ではノートが必要だからこそノートがうまく続けられないことが解説された。

これらの本を読んでも、自分が何か別の「すんばらしい」人間に生まれ変わることはない。言い換えれば「格好良く」なったりはしない。格好悪さのなかで、なんとかもがいていく術(すべ)とそのための勇気が得られるだけだ。

そこには、胸躍るようなワクワク感はないかもしれない。くそったれな現実から目を背けさせてくれる英雄譚は響いてこないかもしれない。

でも、だからこその優しさがある。そう言えるのではないだろうか。

至れない格好良さ

格好良いノウハウは、むろん格好良い。ファッション雑誌を飾るモデルのようなものだ。それは、格好良くなければならない。

しかし、現実の私たちはどうだ。そんなに格好良くはない。鏡を見ればがっかりする。でも、取り換えはきかないのだ。憧れは憧れとして、参考は参考として、この「私」として生きていかなければならない。

それはとても悲しいことではあるだろう。でも、どうあがいても「格好良く」はなれないことは、格好良くなろうとしなくても構わないことを意味する。だって、そうはなれないのだから。それはつまり、くそったれな自分を否定しなくてもよい、ということだ。別にそれはそれでよい。その上で、何かしら少しでも役立つことができたらよい。それが「もがく」ということであろう。

逆に言おう。格好良さを求めている限り、今そこにいる自分を言外に否定していることになる。しかし、どれだけ否定しようともそこにいるのが自分なのではないか。だとしたら、それはずいぶんきついゲームをやっていることになる。負けが決まっているだけでなく、時間が経つごとに苦しくなってくるゲームだ。

「いや、別に格好悪くてもいいじゃないですか」

「完璧ではないけども、何かしらはできているし」

「なんなら、まるっと止めちゃっても、人生が終わるわけではないですから」

単純なメッセージであるし、場合によっては無責任にすら感じるだろう。でも、そういう言葉があまりにも近年語られてこなかったのではないだろうか。それはとても人に厳しい環境であるように思える。

必要な場とその撹乱

ファッション雑誌に意義があるように、格好良いノウハウにももちろん意義がある。それを否定する必要はない。人は憧れに導かれて歩みを進むのだ。何一つ理想が掲げられないならば、停滞という名の安寧が私たちを包み込むだけだろう。そして、時計の針がただ進んでいく。死へと向かって。

憧れは憧れであってよい。格好良いノウハウは、これからもどんどん語られていい。きっとそうすることによって盛り上がり、維持される場というのがあるのだろう。

一方で、言説が偏っている状況はよろしくない。格好良い言葉だけが語られて、格好悪い言葉が消え去るならば、私たちの中にある「格好の悪さ」は行き場をなくしてしまう。それはずいぶん息苦しいことのように思う。

だからこそ、穴を空けていくのだ。赤裸々な告白と、悪意のないうららかな語りを使って。

そういう言説が、少しずつ増えていけばよいと思う。今そこにある「自分」をベースにしながらも、それでいて前を向き、流されるままにはならない、「矛盾」した姿勢を抱える言説が。

それに、決して格好良くはなれないにしても、格好良くあろうとすることはできる。その二つは似ているようでいて、ぜんぜん別物だ。

そうでないことを知りながら、そうであろうと欲すること。

きっと愚かなことなのだろうと思う。そんな想いを抱え込むのは不合理きわまりないに違いない。でも、それでいいのだ、というところをスタート地点にしようではないか。

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