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Notionの日本語化、あるいはデジタルノートを使い続けることについて

知的生産の技術

人気のデジタルノートツール「Notion」が遂に”日本語化”されたようだ。

簡単に言えば、メニューなどの表記を英語から日本語に切り替えられるようになった。

サイドバーメニューの「Settings & Members」の「Language & region」から変更できる。

また、以下の紹介ページもバッチリ日本語になっている。

Notion: タスクも、メモも、ナレッジも、すべてをひとつにする All-in-one workspace

英単語が表示されているだけで心理的なハードルが高まってしまう人もいるだろうし、設定項目が英語だとわかりにくいという問題もあるだろう。日本語化されたことでより広いユーザーに受け入れられやすくなることは間違いない。

ちょうど良いタイミングでC&R研究所から以下のような本も発売されるらしく、普及が一段と広がる可能性もある。

私自身で言えば、ツールは何でもよいと思っている。ツールうんぬんより先に「ノートを取ること」を身に付けることが最優先課題であり、ツールはその課題を解決してはくれないのだから、自分が使いやすいと思うツールをまず「手に馴染ませる」ことを意識したほうがよいと考える。一方で、新しいツールに誘われることでノートを「身に付ける」こともあり得るだろうから、新しいツールがどんどん広がっていくのは悪いことではない、とは思う。

皆さんもそれぞれに自分の好きなツールを使えばいい。でも、「Evernoteがなんだか使えなかったから、Notionならその問題を解決してくれるかも」という期待であるならば、その期待はきっと裏切られるだろう。結局のところ、それはツールの問題ではないのだから。

ルックバック

思い返してみれば、Evernoteの日本法人が出来たのが2010年のことだった。そこから10年と少し経ってNotionの日本語化が行われた。実に印象的である。

この10年という期間、私がどのようにデジタル情報と付き合い、どのような失敗をしてきたのかは、『かーそる 2021年7月号』の「デジタルノートのディストピア」に記した。そこで考えたようなことを踏まえて、今はデジタルツールを使っている。たとえば、Scrapbox。たとえば、WorkFlowy。たとえばEvernoteやNotion。それらの強力なデジタルツールと並行して、ごくごく平凡なテキストファイルと、ものすごく強力なVisual Studio Codeの組み合わせも使っており、むしろテキスト情報の中心的な枠組みはその組み合わせが担っていると言っても過言ではない。

ただしそれもあくまで私の環境の話であって、別の人が同じ話になるわけではない。それぞれの人にそれぞれの環境。これがデジタルツールの最大のメリットである。左右をひっきりなしにチェックして、その「流れ」に自分のやり方やツールを沿わせる必要はない。なんといってもノートは自由なツールなのだから。

とは言え、10年の荒っぽい経験を積んできた──なにせ道が整備されておらず、歩く道は常に獣道だったのだ──人間が言えることはいくつかある。

まず第一に、情報を一ヶ所に集約することは重要だが、そもそも「自分のパソコン」というひとつの端末にすでに集約できている状況がある、ということに気がつくべきだろう。単一のツールにまとめることで検索は一回で済むが、ツールを二つ使っても検索が二回になるだけであり、そもそもどちらにあるのかを思い出せることが多いので、平均すれば一回とちょっとで収まるのである。だからそんなにかっちりきっちり「一ヶ所への集約」にムキにならなくていい。そうなっていたら便利だね、くらいの感覚で大丈夫である。

続いて第二に、「自分の頭を通過させる」ことを意識することだ。むやみやたらにWebクリップを増やしても、あまり良いことはない。少なくとも知的生産的な「効果」は小さい。それよりも、数を絞って「自分の頭を通過させる」ことをやった方がいい。短くコメントを書いたり、考えてタグを付けたりするわけだ。こういうのを「自動的」にやってしまうと、だいたいは破綻する。情報はただ溜まるだけになり、検索はノイズまみれになる。それは望ましい「個人のライブラリ」の姿ではない。

最後に第三に、情報が増えることを念頭において「整理」を考えた方がいい。10個くらいしかノートがない状況と、100個くらいあるのと、1000個くらいあるのと、1万個あるのでは、まったく「勝手が違う」。手間が増えるとかそういう話ではなく、別の作業になってくるのだ。ゆめゆめ忘れてはいけないのは、「大分類→中分類→小分類」のような構造を作り、その構造を排他的な整合性を持って維持していく、というのは無謀である、という点だ。

私はだいたいどんなやり方でもOK派ではあるが、ノートを長期間使っていく上でこういうやり方はまず続かない。少々の不具合は、工夫で解決していけるが、起こる問題が多すぎるのだ。それらに対応していくコストは、いつか支払えるコストを超えてしまう。

アナログノートであれば、多少手間のかかるやり方をしてもOKであった。なぜなら一年も使えばそのノートは新調され、面倒な方法は「リセット」されるからだ。そして、そのときの自分に適応できる方法だけが「生存」する。進化と同じである。一方で、デジタルノートは、同じ方法で使い続けられてしまう。そこには淘汰の起こる余地がない。だからこそ、私たちは一つ上の階層で淘汰を起こす。つまり、全部チャラにして新しいツールに飛びつくのだ(そういう経験をくぐり抜けてきた人は多いだろう)。

「半年とか一年でこのツールを乗り換えるつもり」というのならば、私も特に何も言わない。自由にルールを作り、自由に構造を作ればいい。そういう構築自体が一種の楽しみである。一方で、数年単位で使い続けるツールならば、むやみやたらにルールを決めたり、フォーマットを確立したり、テンプレートを固めてしまうのはお勧めしない。デジタルツールはそのままであり続けるが、それを使う「私」が変化してしまうからだ。

一番恐ろしいのは、変化しないデジタルツールに合わせるように「私」という存在を静的な状態に置いてしまうことだろう。そういう変化の抑制は、無自覚に行われる分、対処が厄介である。

だからノートツールはできるだけ「自由度」を持っておいた方がいい。かっちり決めれば決めるほど、そのときの満足度は高くなるが、締めすぎたネクタイのようにその拘束は後からジワジワ効いてくるものである。

さいごに

Evernoteが「デジタルノート」を一般向けにスタートして10年が経った。その10年を経験してきた人もいるだろうし、今からデジタルノートに親しみはじめる人もいるだろう。そうした人たちが、これからの10年をどのように歩んでいくことになるのかは実に興味深いものである。

歴史は繰り返すのか、それとも歴史は変化するのか。

ノートというツールが生活に(あるいは仕事に)密着したものである以上、その岐路は想像するよりも大きな影響を持っているだろう。

私は私で、いま自分用のツールを自作しているところである。なにせノートは自由なのだ。そして、パソコンも自由である。その二つが重なる点が、たぶんラグランジュ・ポイントなのであろう。

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