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発想のタイムラインと「つなげる」こと

仮想的なアプリケーションのイメージから始めよう。

あなたの着想が、時系列で淡々と記録されていくツール。タイムスタンプはメタ情報として管理され、さながらデータベースのように「びしっ」と自分の着想が一列に整列されるデジタルツール。そのツールを「発想のタイムライン」と呼ぶとする。

その「発想のタイムライン」は、デジタルツールであるのだからして、キーワード検索でごそっと着想を抽出することができる。どうだ、便利だろう。

という風にはいかないのが着想の厄介なところである。

たとえば、「ツェッテルカステン」で検索したら、自分が「ツェッテルカステン」について思いついた着想が”時系列”で引っ張り出せる。これは便利なことだ。アナログツール単体ではほとんど実現不可能と言っていい。

しかし、Twitterを思い返してもわかるが、着想の時系列と着想の文脈は完全には一致しない。むしろ、時空を飛び越えることが非常によく起きる。

10:10 AってXだよね
10:12 BもXか
10:15 AのX性は、どこかしら洞穴をイメージさせるな。

こういうとき、Twitterでは、10:10のツイートにリプライする形で10:15のツイートを行う。いわゆる連ツイというやつだ。時間を跳躍した連ツイ。これがなかなか便利である。

しかし、非常に単純な形で時系列に着想が保存されてしまうと、こうした文脈的つながりによる時間軸の越境がうまく扱えない。

うまく扱えないと、どうなるのか。自分の文脈がうまく再現できない状態に陥る。

上記の例はごく短い時間での越境だが、実際はもっと「間」がたくさん挟まれていることも珍しくない。すると、検索で抽出しても、関連する二つの要素が遠く離れることになる。「つながり」が把握できなくなってしまうのだ。すると、自分で再びその「つながり」を再構築しなければならない。それは、うまくいくかどうかの保証がない知的作業である。

だから、「つなげる」のだ。

重要なのは、つながりの方向性ではない。A→Cとなっているか、C→Aとなっているかはたいした問題ではない。Twitterでは、「時間を遡って」ツイートすることはできないから、必然的にC→Aとなるが、もしかしたら目に入った情報が違っていればまずCを思いつき、次にAを思いついたかもしれない。そのときは、CにAを連ツイする形でつなげるだろう。わざわざツイートをやりなおして「適切な順番」に直すことはしないはずだし、そうしなくてもまったく問題はない。二つの情報が同時に取り出せるならば、私はその文脈を適切に再構築できるだろう(あるいは、遠く離れている場合よりも、ずっとその再構築成功の可能性はあがるだろう)。

情報をカードに書き記すカード法は、情報を原子化する手法であり、ようはこのような「つなげる」を簡便に実行するためのアプローチである。「発想のタイムライン」を、もしアナログノートに記していたとしたら、遠くのものを「つなげる」のは極めて難しくなるので、カードという独立操作が可能なものに情報を固着化させたわけだ。非常にsmartな方法と言えるだろう。

よって、デジタルにおいて同種の考えを採用するならば、まず「つなげる」ことが主眼となる。自分が「この着想は、あの着想と関連している」と感じるその「近さ」(≒文脈)を担保する機能があればいい。

言うまでもなく、この操作は「タイムライン」の運用に関しての話であって、「アウトライン」の操作のそれではない。この二つは基本的に異なる知的営為であり、求められる要件も変わってくる。前者は私たちが直線的に思いつく(なぜなら意識は時間的に一方向に向かってしか進まないから)着想を捉え操作可能にするものに対し、後者は「プロダクト/ドキュメント」を生成するためのものだからだ。

前者は、頭の中にあるネットワーク的な「思いつき」を、タイムラインを経由して点描していくことを目指す。実際そこで描かれるのはタイムラインとコンテキストラインの複雑な重なりである。しかし先ほども確認したように、重視されるのはコンテキストラインの方だ。それがネットワークのエッジになる。

後者は、情報のネットワークを、なんとかツリー状にまとめようとする懸命な取り組みである。可能性はことごとく切断され、ある一つのメッセージに向けて情報は整えられていく。主題があり、範囲があり、強弱があり、一方通行の流れがある。自然ではなく、人工的な「情報」がそこでは生成される。

もちろん、どちらの操作においても、デジタルツールは活躍する。そして、その活躍ぶりを今後の私たちは適切に整理していく必要があるのだろう。

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