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『Re:vision』と脱構築

『現代思想入門』を読んでみて、自分がかなり現代思想に影響を受けているなと感じた。そのことは、最近発売した『Re:vision』と合わせて読むとよく伝わってくる。

たとえばデリダである。二項対立を扱う彼の手つきは、個人的にとても好ましく感じる。彼は「脱構築」を述べるのだが、そうした作業を経て作られた構造もまた脱構築の対象になりうる。それは可能な限り無限に続いていくようにすら思える。むしろ、そのような脱構築の連続にこそ、つまり in process な有り様の中でしか存在できないものがあるのではないか、という思考が刺激される。

めくるめく脱構築の連続は、ある種流動的ではあるのだが、グジュグジュに崩れてはいない。一つの終わりはあって、しかしその終わりは次の始まりにつながっている。つまり固定は固定であっても、かりそめの固定に過ぎない、ということだ。逆に言えば、私たちは固定(構造)を必要とする。少なくとも、認識の上ではそういうフォーマットを完全に回避することはできない。

そうしたフォーマットは鋳型となり認識を固めてしまうわけだが、しかしそれを捨て去ることは難しいのだ。だからこそ、フォーマットを入れ替えて、中身を揺り動かしていく。

『Re:vision』における「理想」と「現実」も、同様のアプローチが用いられている。「理想」と「現実」を同一視する危険性を説きながらも、しかしそれをまったく別のものとしては扱ってない。「意志とは理想を現実化しようとするベクトルのこと」だと、私は書いた。理想はいつでも現実に手を伸ばそうとしているのだ。そしてまた、現実の結果から立ち上がる新しい理想というものもある。

つまり、『Re:vision』における「理想」の扱いは静的なものではない。理想と現実の折り重なりの中で、常に新しく生まれてくる「理想」と「現実」があり、その in process の中で立ち上がる一つの方向性こそが「Re:vision」なのである。

私たちは何かを分析的に思索するとき、その対象をどうしても静的なものとして捉えてしまう。しかし、人生に静止はない。一秒たりとも止まるときなどなく、その時空間の中に私たちは存在しているのだ。その揺れ動く時空間の中で、多くの物事が関係しあっている。あたかもリゾームのように……というのは、ドゥルーズの思想である。

もう一つ、社会が私たちを「主体化」させ、「効率的」に振る舞うように要請するその力から逃走するために、「タスクに自分の想いを書く」というテーマもあるのだが、そこは深くは掘り下げられていない。でも、たしかにそうしたフーコーからのまなざしは『Re:vision』に含まれている。

こんな風に『Re:vision』に含まれる思想の多くは、『現代思想入門』で中心的に紹介されているデリダ、ドゥルーズ、フーコーに影響を受けている(ように見える)。

別に現代思想が偉いと言いたいわけではない。しかし、「バリバリのキャリア自己啓発」と「あるがままの自分でALLOKスピチュアル」の両端に振れている状況から抜け出るためには、そうした思想の道具が必要になってくるように思う。

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