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地頭、素直、信頼

一時期「地頭」という言葉が流行った。「じがしら」でも「じとう」でもなく、「じあたま」だ。地の頭の良さ、という意味合いなのかもしれない。「地頭力」などとなってくると、さらに意味が曖昧としてくる。「知能」とは違った意味なのだろうか(まあ、知能の定義も学問的には難しいようだが)。

それはさておき、たしかに「頭の良さ」というのは大切な要素だろう。パソコンで言えばCPUのスペックだ。低いよりは高い方がよい、そんな風には言える(ただし、その他がまったく同じ状態ならという保留がつくわけだが)。

とは言え、頭の良さだけがすべてかと言えば、そういうわけではないだろう。それはある種の「スタート地点」であって、そこから何が始まるのかが重要だと言える。

その意味で、「素直さ」は大切な要素だ。相手の教えを素直に受け取ること。これができないと、自分の「地頭」の外に出ることはできない。それがどれくらい狭いことなのかは、この地球上の知性と、自分の脳内にある知性を比較してみればすぐにわかる。どれだけ賢明に考えても、一人の思考は一人の思考である。どこまで内省を重ねても、その内省の限界は内省ではたどり着けない。たとえば、思索に思索を重ねても、その思索の前提が誤っていることに気がつけない、ということがある(それも頻繁にある)。

その意味で、「素直」というインターフェースが確立されていることは「地頭」の良さ以上に大切かもしれない。自分の思考を広げていく力がそこにはあるからだ。

もちろん、世の中にはフェイクニュースなどもあるし、誤った教えもある。「素直」100%であればよい、というものではない。疑う気持ちもまた大切だ。しかし、そもそもとして「素直が大切」という言説があること自体、人間の心にはそれ以外のものが潜んでいることがうかがえる。そして、実際にその通りなのだ。

人間は、自分と同じ価値観を支持する情報は「素直」に受け取る。一方で、そうでない情報には疑問を持つ。フェイクニュースにまつわる問題も、基本的にはそこがポイントになるだろう。

その上で言えるのは、自分の思考を広げる上で重要なのは、こうした状況における「素直さ」である、ということだ。つまり、自分がその時点までに持っている価値観を傷つける情報に「素直さ」を発揮できるかどうか。そのような、危うい情報摂取のスタイルこそが思考を広げる上で大切になる。たとえていえば、それは追加の情報をダウンロードするのではなく、OSのバージョンを一つ上げるような「大仕事」である。当然そのようなバージョンアップにはリスクが潜んでいるわけだが、それを回避し続けるならば古いOSを使い続けなければいけなくなる。

むしろ、そのようなリスクがあるからこそ、情報源はなんでもいい、というわけにはいかなくなる。「信頼できる」ものを対象としなければならない。「ここならば、リスクは小さい」と判断できるもの。そういう線引きがあってこそ、「素直さ」は活きてくる。イノセントであればいいというものではなく、戦略的な素直さが大切だ、ということだ。

では、その「信頼」はいかに確認されるだろうか。

残念ながら絶対的な基準というものはない。経験的に「あっ、これダメだ。その場しのぎでウケの良いことを刹那的に言っているだけだ」と判断できるものはあるが、そこまで明確なものはむしろ珍しいだろう(YouTubeではそのレアリティが変動するが)。実際は、「良いか悪いか判断に困る」というものが多いはずだ。そうした対象については、分析的に(つまり還元的に)考えてもラチがあかない。時間的に長く観察し、話題的に広くウォッチする必要がある。その上で、自分で判断するわけだ。

その判断は、間違うことがある。というか、最初は間違うことの方が多いだろう。そうした経験を経て、徐々に自分の判断基準を磨き上げていくわけだ。また、長期的なスタンををとることで、「絶対」というものはないこともわかる。ある時期は良いことを言っていたけども、最近は……みたいなことが起こる。あるいは、自分のジャッジメントそのものがバイアスに歪んでいたと後から気がつくこともある。盲信は危ういのだ。

ここで素直さと盲信がぶつかるような気がするが、そうではない。戦略的な素直さとは、「とりあえず、正しいとして受け取る」という態度のことだ。確定的な事柄にはしないが、かといって「正しいでも間違っているでもない」という曖昧な状態にもしない。とりあえず、その時点では、正しいとして受け取っておく、という態度のことである。つまり100%の鵜呑みではない。どこかに逃走線が引かれている。それが盲信ではない、ということの意味だ。

総じて言えば、信頼とは「賭け」である。どこの誰も元本保証などしてくれない。裏書きされていたとしても、そんなものはいつでもひっくり返される性質のものである。そういうリスクを引き受けるのは、おそらく「地頭力」とは違った力が必要になるだろう。むじろ、なまじ「地頭力」だけが高いと、身動きがとれなくなってしまう可能性が高い。それが分析的なものの一つの限界でもある。

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