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メソッドの「正しさ」、「正しさ」の検討

何かしらのメソッドには、「正しい」やり方がある。誰かが規定したものならなおさらだろう。

一方で、そのメソッドの通りに実践することが、その人にとって「正しい」とは限らない。言い換えれば、メソッドの正確な運用が適性である保証はどこにもない。

この「正しさ」のねじれが厄介な問題を引き起こす。

とは言え、自分の実践において大切なのは後者の「正しさ」だろう。前者の「正しさ」は、あくまでそのメソッドの平面において機能するものであり、その外に出たら話は違ってくる。

ビジネスとしてメソッドを売るならば、そうした「正しさ」は主張していかなければならない。それはその通りだろう。非常に合理的な姿勢だ。

一方で、そのメソッドを使う私たちにとって、そうした「正しさ」が担保されているかはわりとどうでも言い話である。自分が使って、たしかに役立つのかどうか。それが重要となる。

とは言え、前者の「正しさ」を軽んじていいわけではない。むしろ逆だ。そうした「正しさ」に至ったのにはきちんとした理路(あるいは結果)があるからだろうし、それをどうでもいいと軽んじて良いはずがない。言い換えれば、「なんちゃって」な理解を、「正しい」ものだとすり替えてしまうのは、本家に対する冒涜である。

あくまで、そのメソッドの「正しい」やり方は、存在している。

それでも、自分の実践における有効性の検討は、そうした「正しさ」の外で行わなければならない。こういう二重の態度をキープするのである。

以下の記事で、動画とスライドが公開されている。

ライフハック研究会Online第一回の一人反省会 | Hacks for Creative Life!

動画の中で、「自分の方法は正統なものとは言えないし、そんなことを言ったらちゃんとやっている人に怒られてしまう」という発言がある。世の中のノウハウ伝授者は、一度内省した方がいいだろう。受講者にそんな気を使わせているのだとしたら、本当にそれは「正しい」ことなのだろうかと。

スライドに「脱原理主義」という言葉があるが、こういうノウハウにそもそも「原理主義」なんてものは合わないのだ。そういう「本家」や「開祖」や「家元」的考え方は、抑圧的過ぎる。

ライフハックの、根源的なマインドセットは「DIY」だ。DIYと家元は、がぜん相性が悪い。むしろ、家元的精神でノウハウを伝授すればするほど、ライフハックマインドは死んでいくのではないか。それこそが、今広がっている荒野の正体ではないのか。

プログラミングでは、フレームワークを使うのはごく自然なことだ。あるいはライブラリでもいい。そうしたものを使い、自分なりのプログラムを作る。

この分野に引きつければ、自分のシステムを作る、自分の思考のOSを作る。そんな行いに「家元」などありようもない。あなたの人生は、あなたが生きるものなのだから。

そのようなフレームワークやライブラリを使ってプログラムを作ることは、剽窃でもないし、二番煎じでもない。むしろ、他者の知見を活かすごくまっとうなやり方である。

人々の人生が画一的であり、うまい生きるためのプロセスすらも同一であると仮定するならば、家元制度もよろしかろう。しかし、虫眼鏡を使わなくても、周りで生きている人を真摯に観察すれば、そうでないことはわかる。

だから、私たちは自分でメソッドを組み上げていく必要がある。借り物のフレームワークやライブラリを使い、借り物でない自分のメソッドをプログラミングするのである。

それは何も特別なことではない。ごく普通に生きる人生それぞれに潜んでいる「必要性」なのだ。そこから目を逸らすための資源はいくらでも転がっているが、しかしそうしていても必要性が消えてなくなるわけではない。

上記は、メソッドをどう捉えるか、という話ではない。

一人ひとりの「人生」をどう捉えるのか、という話だ。

メソッドの議論に矮小化して、話を混乱させない方がいいだろう。

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