ブログというものは、ひとまず死んだと言えるだろう。あるいは、かつてブログというメディアが持っていたパワーはすでに失われてしまった、と言ってもいい。
Evan WilliamsがMediumトップから退任 – by 堀 正岳 (@mehori)
端的にいうなら「ブログでマネタイズしてどこかにいける」「ブログで権威や人気者になれる」といった、ブログがメディアとしてもっていた初期のログインボーナス的な部分がなくなり、より広く「ネットの中でなにを届けている人なのか」が可視化される方法が多様化した結果といえるのです。
ブログやそのプラットフォームの維持が難しいのは、そのままマネタイズの難しさであると考えてよい。文章書いているだけでバンバンお金が回るならば、今のような状況にはなっていまい。実際、広告費が入り込んでいるのは、動画メディアである。よって、そうしたマネー回路に接続したいのなら、ブログのような文章メディアはあっさりと捨て去って、新しい世界に飛び込めばいいだろう。
一方で、大勢とマネーがそちらの方向に流れても、あいかわらず文章を書きたい人はいて、そうした人が書いた文章を読みたい人もいる。あるいは、そういう人を支援してもいいと考える人もいる。
無報酬で書き続ける人は、世界がどう動こうか書き続けるだろうし(おそらく思想警察に目をつけられてすら書こうとするだろう)、支援が必要な人は、コアな読者とつながることで支援を受けながら書き続けていくだろう。もしかしたら、そこで使われる媒体はCMSとしての「ブログ」ではないかもしれない。しかし、そこに宿る魂は、たしかにブログスピリッツである。その意味で、個人が文章を書いて、それを世に問う、という行為が完全に消滅することはないだろう。
ではなぜ「文章」なのか。
それは『啓蒙思想2.0』を引いてもらってもいいし、拙著『すべてはノートからはじまる あなたの人生をひらく記録術』を参照してもいいが、そうした表現が「落ち着きを取り戻すため」のものであるからだ。格好つけていえば、理性を働かせることが文章を書き、そして読むときに起こるからだ。
文章を読む人のことを想像して、話の順番を組み立て、説明を考え、たとえを検討する。実にゆっくりとした道のりである。最近のコンピューティングでは失われつつあるものが、そこにはある。また、そうして提示される文章は「直感的」にはわからない。少しずつ意味をひも解いていく必要がある。そこでもやはり、「頭を働かせる」ことが起きる。
書き手にとっても、読み手にとっても、ギアを減速させる効果が、文章にはあるのである。その効果は、書かれた文章が長くなればなるほど発揮される。何もかもをスピーディーに回していこうとするテクノロジー社会の中にあって、ほとんど叛逆的なまでに「遅れた」存在。それが文章だ。
だからこそ、ブログというメディアはパワーを失ってしまった。なぜなら、落ち着いて考えさせることほど、「広告」に向かないものはないからだ。拙速の決断を迫ればせまるほど、クリックボタンが押される可能性が高まる。もちろん、それは文章を書いて表現しようとする人間が求める結果ではない。だから、はじめからその二つは相いれなかったのだ。
もともとが個人主義の媒体であり──つまりマス向けでなく──、「文章」を使って考えるような人間にとって、ちらつく広告は邪魔者でしかない。しかし、それではインターネットの中でたしかなポジションは獲得できない。ブログの死は、必然的な結果であると言えるだろう。
一方で、それはブログ的なものが何も力を持たないことを意味してはいない。落ち着いて考えることを欲する人には、あいかわらず有用なメディアであるし、むしろその希少価値は年々上昇しているとすら言える。
もちろん、問題がないわけではない。Googleに最適化されないブログを書いても、誰にも読まれない可能性が高い。特に「個人的」なことを書いた──プライベート情報を晒すという意味ではなく、個人の考えを表明するという意味だ──ブログであればなおさらだろう。
しかし、「ブログというのはGoogleに最適化すべきものである」という規範性は、別段真理でもなければ、原理でもない。単に一つのゲームのルールなだけである。そのゲームに参加しないならば、いくらでも方法はある。
私がトンネルChannel | 倉下忠憲@rashita2 | Substackという媒体で試みているのは、それまでとは違ったゲームを展開できる場の模索である。著名人になったり、お小遣いを稼ぐことを度外視するならば、さまざまな方法で「文章」を書き、読んでもらえる方法は作れるはずだ。少なくとも、そうした想像を許容できるくらいには、コンピュータとインターネットが持つ力の余地は大きいと個人的には感じている。
なんにせよ、諦めるのは早いだろう。まだまだ Life with Computer の時代は始まったばかりなのだから。