『ライティングの哲学』に収録されている「断念の文章術」において、読書猿は「ランドリーリスト」という〈断念の技法〉を紹介している。買い物メモのように、気負わずに書き留めるリスト、くらいの感覚だろうか。
「書けない」悪循環に囚われるたびに、主語・述語を完備した文を書くことをあきらめ、小さなメモに単語の箇条書きだけを書くようにした。
多くは、忘れてはこまる、締め切りとか依頼先とか与えられたお題、そういった実用的な記録だ。そんなものから書きだしていくうちに、時にはその日の天気や読んだ本の題名、時々はおもいつき(大抵は使えない)が混じる。
この部分を読むと、呼び起こされるものがいくつも出てくる。
たとえば、Tak.の『書くためのアウトライン・プロセッシング』。
この部分は 「テーマを探す」 を超えてほとんど 「内容」に踏み込んでいる気がします。 今回のフリーライティングの目的はテーマ案を掘り下げることだったので、その意味では逸脱かもしれません。でも、テーマを考えれば内容も同時に考えることになるというのは、ある意味当然のことです。 関連して (芋づる式に)出てくる発想を「線」 としてキャッチできることが、 フリーライティングの大きなメリットです。
あるいは、Tak.と私の共著である『Re:vision』。
いきなりミーティングの内容と自分の立場の確認に踏み込んでいる。「タスクを書き出す」という感覚ではこういう内容は出てこない。ここでは、ある意味では「仕事そのもの」をしているのだ。
はたまた、goryugoのナレッジスタックの以下の記事。
ほとんどのメモを「今日」のページで管理・記録するLogseqデイリー日誌術 – by goryugo
たとえば、今あなたが読んでいるこの記事を書くという「タスク」
これを実行するにあたり、複数日にわたって「アイデア出し」をした。その際には、デイリーノートに以下のような形でアイデア出しを行っている。
この下書きが、デイリーノートでできる。とりあえずデイリーノートに書いておけばどうにかなるという信頼感。これがあることで書ける。
あることをはじめたのに、それとは違うところまで(しかも、最終的に望んでいるものに)手が伸びている。そんな感覚。
「書く」ことは気負いを生む。あるいは、「きちんと書かなければ」という規範を生む。その規範性が強ければ強いほど──つまり執筆に憧れを持てば持つほど──、私たちは書けなくなる。
よって、「これは【書く】のではない行為なのだ」という地点からスタートする。すると、いつの間にか井戸の壁を抜けて、別の場所に存在していることに気がつく。書かないで書くの技法だ。
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ズンク・アーレンス の『TAKE NOTES!』の邦訳では、あきらかにノートやカードと呼んだ方がよさそうなものたちを「メモ」と呼んでいる。それはおそらく「メモ」という語感の緩さを効果的に使おうとする意図があるのだろう。
メモは、規範性を呼び起こさない。だから書きやすい。
この「書きやすさ」をどう使うかが、執筆においては重要になってくる。
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単なるメモを、それも実務的な(あるいは実用的な)メモを書いていたのに、ついうっかり「おもいつき」を書いてしまう。そのような脱線。あるいは越境。あたかも自由連想法において抑圧されていた無意識が、ふと口をついてしまうような、そんな感覚。
これはいったい何だろうか。
目的志向で身動きが取れなくなっているときに、非目的的になるのではなく、目的性をズラすことで求める方向に向かえるようにすること。自律と非自律のコンバージェンス。
奇妙な現象だが、つきつめれば「執筆」とはこのような営為であろう。『かーそる 2017年7月号』に収録された「執筆の現象学」でも触れたが、書くという行為は「自我」という最上概念によるトップダウンゲームではない。むしろ「私」を一つの要素とした「場」の出力なのである。
だからこそ、文章を「きちんと」書こうとすればするほど、書けなくなってしまう。それは結局、「執筆」をトップダウン的な行為へと再配置するようなものだからだ。
私たちは、書こうとしながらも、書かされている。
そのようなどっちつかずの状況こそが、一番「書ける」状態なのだと思う。
「シェイク」という技法において、ボトムアップ的に構成が変化していくのは、書き出した要素によって構成の変更が要求されているとも捉えられる。変えることと、変えさせられていることの重ね合わせがそこにある。シェイクとは中動態なのである。
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同じように、メモも自分で書いているようであって、しかし「書かざるをえない」ような感覚がどこかにある。メモ魔の人ならば共感してくれるだろう。そこには突き動かされるような感覚があるのだ。
メモ環境を整えるとは、そのような感覚を減衰させることなく、実際にメモを起こせるように状況を調整することを言う。起こってしまった「メモしないと!」という感覚を邪魔しないことが何よりも大切というわけだ。
執筆という行為は大きな構造物を造ることに相当するので、それを小さく分解するためにメモを取りましょう、というアドバイスはたしかにある。野口悠紀雄はそうしたことを私たちに教えてくれた。
でも、それだけなのだろうか。デカルト的な「困難は分割せよ」のためだけにメモは存在するのだろうか。
私はそうは思わない。たしかにそのような分割の力もあるにはあるが、それ以上に「書かざるを得ない」が持つ力を活かしていくためにメモは必要なのではないか。
この話はわかりにくいかもしれない。しかし、「メモなら簡単に書ける」というとき、なぜそれが簡単に書けるのかを(そして文章が簡単には書けないのかを)考えてみると、なかなか奥深い話であることに気がつかれるだろう。
▼参考文献: