勉強するときに活躍するノートは、さまざまな知識を取り込むために使われる。自分が知らなかったことを、知る。外部に存在したものを、内部に再配置する。そういう使い方だ。
一方で、似た使い方は逆向きのベクトルにおいても活躍する。つまり、自分が知らなかった、自分について知る、ということだ。
結城浩さんのメルマガにこんな文章があった。
cakesクローズのアナウンス/作業ログからの経験則/良い文章を書く/成績を上げてまわりを驚かせたい/|結城浩
一時間でここまで進むだろうと思う。でも進まない。一日あればこのくらいできるだろうと思う。でもできない。一週間でこのくらい書けるかなと思う。でも書けない。「実績」という名の作業ログを日々書いていると、自分の現実的な生産性がよくわかります。
とてもよくわかる話だ。私も日々作業記録をつけ、残念な「自分の現実的な生産性」に直面している。こればかりはどうしようもない。できないことはできない。できることはできる。この当たり前のトートロジーに気がつかせてくれる。
自分がふだんできるレベルのことは、できる。ふだんの進捗と同じ進捗は、ある。ふだんの実績と同じような実績は、得られる。何しろそれが「ふだんの実績」なのですから。進捗ダメですというのは、自分の期待や希望的観測とずれているだけです。
私たちは、理想のメガネをかけて現実を見つめがちである。たしかにその景色は美しく輝いているだろうが、遅れてやってくる現実はもっと色あせたものとなる。このギャップに私たちは苦しむわけだ。それは結局、理想を理想としてではなく、現実として捉えているということだ。
理想と現実は違う。理想は理想であって、現実は現実である。このトートロジーをどこまで引き受けられるかが、メンタル的な健康ときっと関わっている。
ちなみに、ギャップに苦しみ、現実に耐えがたくなったときに、「より輝く理想」を求めたらどうなるかは、少し想像しておくとよいだろう。悪循環がやってくるはずである。
ともあれ、作業記録などのログをつけていると、いやおうなしに理想とは違う現実に向き合うことになる。この辺はデイリータスクリストでもそうだし、きっとタスクシュートでも同じだろう。
こういうツールや手法を実施していても、基本的に心楽しくはない。胸躍るようなワクワク感もほとんどない。特に「理想」が研磨されていないときはなおさらである。よって、ワクワク感のみを原動力としているときは、こうした手法は回避されがちである。当然それは理想の「研磨」を呼ばない。
実際、はじめの方に起こる「ちょっとした苦労やしんどさ」をまるっきり回避していると、基本的に同じ状態に留まることになる。別にそれでいいというならば、もちろんそれでも構わない。ただし、状況の改善を求めて、「より輝く理想」に手を伸ばしているならば、きっと同じ状態に留まるだけでなく、より悪い状態に移行してしまうことは念頭に置いた方がよいだろう。別段脅すつもりはないが、フィードバックループが回っていると、かなりのスピードで状況が変化してしまうことは十分あり得る話なのだ。
ともあれ、ノートに着想を書いたり、行動を書いたりしていると、「現実の自分」を知ることになってくる。ようするに自分が思っているほどたいしたことがない自分、というやつだ。
それはまあ、ショックと言えばショックだろう。しかし、人間は慣れるものだ。そういうものでしかないのならば、そういうものからしか始めるしかない。
でもって、記録をとり続けていくことは、変わらない現実を直視させると共に、変化している自分を確認させてくれたりもする。たしかに「そういうもの」でしかないかもしれないが、仮にそうであっても、未来永劫「そういうもの」であるとは限らない。劇的な変化は起こらなくても、ちょっとくらいは変わっていることはある。
それは光り輝いてはいないかもしれないが、たしかに一つの希望ではあるだろう。