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幸福と不幸の非対称性

「幸福な家庭というのはどこも似たり寄ったりだが、不幸な家庭は皆それぞれに不幸である。」

というのは、作家トルストイの有名な小説の書き出しである。この文章を読むと、次の展開がどうしても気になってしまうような、実に「上手い」書き出しである。

さて、幸福な家庭と不幸な家庭というのは、何が違うのだろうか。

もちろん、幸福、不幸というのは定義によって変わってくる。はたから見れば「幸福そうな」家庭であっても、その実は・・・。ということがよくありそうだ。

よく勘違いされるのが、裕福=幸福という考え方である。

もちろん、圧倒的な、明日の生活の保証すらないような状況で、私達は幸福ですといっても、あまり説得力がないかもしれない。

しかしながら、お金があればそれで幸福というものではない。

それは、家庭というくくりだけでなく、個人として考えても同じようなことであろう。

私は、幸福は、「現状に満足を感じている人(々)」、であって、不幸というのは、「常に何らかの不満を持ち続けている、あるいはその種を探し続けている人(々)」であると考える。

不幸の種はありとあらゆるところから降ってくる。
そのそれぞれに対応していけば、無数の「不幸さ」が生まれてくるだろう。
しかし、それらを全て受け止めてしまえば、「幸福」ができあがる。その形は一つである。

別に、不幸は精神論で全てなくすことができる、というような強引な定義をしたいわけではない。
しかしながら、不幸というのは、ある程度不満というものから生み出されているということも確かである。

考えから、自分の受け止め方を、すこし高いレベルもっていければ、なんでもないようなことがたくさんある。

あるいは、自分の力だけでは、どうしようもない事態も起こりうる。

その中で、たいしたことでもないことに、心のエネルギーを使うのは無駄である、と私は思う。

もちろん、心は一人一人違う。
もろく壊れやすい人もいれば、鉄でできたような人もいる。

結局のところ、なにか悪いことが自分(達)のみに降りかかったときに、「あぁ~私(達)は不幸だ」と考えないことである。そういう考えは、心の逃げ道にはなるが、何にも解決する手段になっていない。

そういう考えに長い間浸っていると、少しずつ行動を起こすエネルギーが失われていく。
そして気がついた時には抜け出せなくなってしまう。

幸福と不幸の非対称性に、似ているのが、失敗したときの対応である。
一つは、スイマセンと謝ってその後の対応をとっていくこと。もう一つは、それこそ無限に思いつくであろう言い訳を次から次へと並べ立てること。

「謝罪というのはどれも似たり寄ったりだが、言い訳というのは人の数だけある」

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