生きているとぽっかり空いた穴にはまりこむことがある。あるいはそれは虚無へと通じる問いに囚われると表現してもよい。
そうしたとき、その問いの「答え」を知っていてもどうにもならない。むしろそのことがより囚われを強めてしまうことすらある。あるいは、手にしていたものが虚無だったと気がついてしまうことも。
必要なのは、そうした問いへの取り組み方である。答えではなく、プロセス。あるいはアプローチ。そうした動きでしか、その穴から抜け出ることは叶わない。それくらいに強い引力が働いているのだ。
その意味で、「考える力」とは答えを知っていることではない。知識のバリエーションが多いほど、考える力が豊かとはいない。考える力とは、目の前の状況から実りある「答え」を導き出すプロセスを起動できる力のことだ。何が実りがあり、何がそうでないかを理屈にからめ捕られることなく判断できる力のことだ。
もう一度言うが「答え」がどうであるかはたいして意味がない。というか、人類文明が積み重ねてきた「答え」はいくらでも見つかる。似合う服を見つけるように、そこから適切な「答え」を選べばOK、とはいかない。
どんな風に答えを導き出し、その答えを、つまりは決断を引き受けるのか。
それが生きていく上での「考える力」であろう。
そこでは論破など何の意味も持たない。むしろ目隠しして穴にはまりやすくなるだけである。