Obsidianに新しい機能が追加された。Canvas機能だ。ナレッジスタックにおいてごりゅごさんがその機能のファーストインプレッションを書いておられた。
Obsidian Canvasのファーストインプレッション – by goryugo – ナレッジスタック
だいたい私も似た感想である。以前「Heptabaseが示す思考ツールの未来」でも書いたが、こうしたビューは大きな力を持つ。ビューというよりも、そのビューを含む大きな流れと言うべきだろうか。
たとえばEvernoteであれば「集める」ことは得意だ。しかし、集めたものを使って何かをする、というのはあまり得意ではない。最近ようやくノートから移動せずに別のノートのリンクが追記できる機能が実装されたが、本来ならばそうした機能の拡充こそがEvernoteの使命だったはずだ。「保存して読み返す」だけでなく、「集めて利用する」という情報の使い方。
Heptabaseはまさにそれが意識されたツールである。情報は「カード」の形で保存され、いくつものホワイトボードに配置できる。情報同士の関係性が可視化され、そこから何かを考え出すことができる。思考の補助ツールだ。その観点から言うと──いささか厳しい言い方になるが──Obsidianのグラフビューはビューとしての美しさくらいしか効果がない。少なくともHeptabaseのホワイトボードと同じような効果は期待できない。自分が要素を「配置」できるわけではないからだ。
「配置」の重要性は、たとえばアウトライナーを使っていればよくわかる。アウトライナーは線形への配置だが、それでも位置が重要だということがよくわかる。何かを一番上にしていること、別の何かをその下に置いていることは、(私にとって)意味がある。それはソート順を変えられるのとは本質的に意味が異なる。自分の認識を(そして意志)をそのツール上で表現する行為なのである。
自分が何を理解しているのかを知ることが、その理解を深める一歩だとするならば、HeptabaseそしてObsidian Canvasのような機能がいかに重要なのかがわかる。関連する情報が一覧できるだけではダメなのだ。自分がそれらの情報をどう配置するのかが重要なのである。そうして配置したものを、再び自分が目にして、そこから考える。それによって思考の階段を上に上っていける。そういうことができるツールがこれまであまりにも少なかった。資料は「整列」させられれば事足りるだろうが、その性質は情報一般に敷延できるものではない。「配置」することが必要な情報もあるのだ。
発想法として著名なKJ法でも、文章化(B型叙述化)の前に関係性を図解化(A型図解化)する工程が挟まれている。その工程は、間違いなく「自分の理解を確かめる」ために行われる。そこに現れる関係性の図が重要なのではなく、自分でその図を起こすことが重要なのだ。だから勝手に整列されても意味がないし、AIがそれを為しても意味がない。自分の考えがそこに「現れてくる」ことが必要なのである。
なんにせよ、「知的生産」を一歩前に進めたければ、自分が集めたものたちを何かしらの形で並べてみることだ。それも自分の手を使って並べてみることだ。そうしてみることで、知識と知識の、あるいは情報と情報の距離感や近親性がより体感的に理解できるようになるだろう。そうするとフラットさは消え、明瞭な順番や配置が脳内に浮かび上がってくる。そういうものが浮かんできたら、実際に何かを書き出すまではもう一歩だ。
その意味で、知的生産に必要なのはデータベースではない。データベースは強い補助にはなるが、そのエンジンにはならない。エンジンになるのはボードである。あるいは配置である。その並びが魂を駆り立てるからこそ、人は苦労してまで本を書くのである。
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