少し前にScrapboxで以下のページを作った。
ざっと書き終えた後、ページを見返すと「階層構造」という文字が光って見えたので(もちろんメタファーだ)、それをリンクにした。すると、以下の二つのリンクがページの下部に表示された。
どちらもページの中に「階層構造」という言葉のリンクを持っている。言い換えれば、これらのページでも私がページを書いているときに「階層構造」という言葉が光って見えたというわけだ。つまり、この関連ページには「同じ語句に光を感じた仲間」が表示されていることになる。単なる共通性ではなくもっと強い関連性があるわけだ。
最初に挙げたページには「階層構造」以外にも単語はあるが、それらはリンクになっていない。私の目には光って見えなかったからだ。同様に、これらのページ以外にも「階層構造」という単語を含んだページは存在しているが、
それらのページではリンクにはなっていないし、だからこそ関連ページには表示されていない。ここではその「表示のされていなさ」がとても大切なのである。そこにはある種の間引き、あるいはフィルタリングがある。
多すぎても困る
「関連ページ」の表示というと、まず「どれだけたくさんのものが表示されるのか」に興味が向くだろう。特にノートツールを使い出した初期のころはそうなるはずである。
たしかに、何も関連ページが表示されない状態に比べれば、一つでも多くのページが表示された方が嬉しい感じがする。だから、ノートツールを使い出した始めのころは、自動的なリンク付与の機能を求める。そうすれば、つながりが可視化されて楽しくなるからだ。まるで携帯電話を買ってもらったばかりの中学生が、やたらめったらアドレス帳に番号を登録するかのように。
でも、ある程度数が増えてくると話が変わってくる。増えれば増えるほど良い、とは単純には言えなくなるのだ。現在はGoogleがすさまじい数のWebページを検索してくれるが、はたして嬉しい状態になっているだろうか。あるいは、Twitterで100人フォローしている状態と、1万人フォローしている状態は同じだろうか。数の拡大は、単純に線形な嬉しさの拡大につながっているだろうか。
ノートツールでも同じである。使い続ければ情報は増える。当然、単純な関連性も増えていく。それらすべてが「関連するページ」に表示されたら、意味の重みづけが消失してしまうだろう。
これはごく単純な試行実験をしてみればわかる。関連するページに2ホップ先の関連だけでなく、6ホップ先の関連まで表示したらどうなるか。「六次の隔たり」(Wikipedia)の考え方を拝借すれば、すべてのページが関連ページに表示されることになるだろう。それはHome画面と変わらない。つまり、多さが一定の閾値を超えたら、便利ではなくなるラインが存在するのだ。
だからこそ、フィルターが必要なのである。
時間が経っても機能する
先ほどの3つの関連ページは、私が「階層構造」にリンクをつけようと思ったページだけが抽出して表示されている。つまり、そのページの文脈において「階層構造」という言葉が特別な意味の強さを持つページ、ということだ。
それはどんなページかと言えば、「階層構造」に関係して私が何かを考えたページということになる。文章の中にたまたまその言葉が出てきたのではなく、まさにその概念そのものに直接関わる事柄を考えているページが出ているのだ。それが「言葉が光って見える」というメタファーが意味するところである。
しかも、それらのページの作成時刻には四年間の隔たりがある。四年間!
ある概念について今考えたことと、四年前に考えたことを関連付けられる。あるいは、現在の視点から、過去考えたことを再検討できる。それがScrapboxというツールの射程の長さだ。
何度も言っているが、ページ数が少ないうちはScrapboxの良さはそれほど実感されないだろう。見栄えのよいツールや自動でいろいろやってくれるツールの方が優れている感じすらするかもしれない。しかし、Scrapboxには家庭料理的な良さがある。いつまでも使い続けられるし、そこに無理がない。ページが増えても破綻しないし、むしろ意外な嬉しいことが増えていくのだ。
自動化の問題
もちろん、自動でリンクがつかないので「拾い忘れ」は確実に発生する。先ほど「階層構造」で検索したときに、「あっ、これもリンクにしてもいいかも」というものが見つかった。他にもこの記事を書くために上部の検索窓に「サイドバー」と入力したら「サイドバーが長くなっていく問題」という別のページを見つけた。
こちらは横ではなく縦にサイドバーが長くなっていることを憂いている。つまり、サイドバーは縦にも横にも長くなっていくというわけだ。こんな風に多面的に考えを展開していける。
もし自動的にリンクがついてくれたら、こうしたものを「作った最初のタイミング」で取りこぼすことはなくなるだろう。その代わり、あまりに多くのノイズがそこにリンクされることになる。
さて、どちらがいいだろうか。主体的に作成することでノイズがきわめて小さくなるが、取りこぼしが出てくるので、定期的に手を入れていく必要があるものと、手間がまったくかからない代わりにノイズが極大化するもの。
これはもう明らかに前者である。言い切ってしまっていい。後者は知的生産ツールにはまったく向いていない。有害ですらある。前者はノイズが小さいことでよりクリティカルに考えていけるようになるメリットがあるが、それだけではない。「定期的に手を入れていく必要がある」という点が効果を持つのだ。
Scrapboxのリンクは、どの時点をとっても完璧完全とは言えない。自分でノートを見返して、手を入れていかなければならない。
その意味で、〈弱いノートツール〉である。これは岡田美智男氏の〈弱いロボット〉を拝借している。〈弱いロボット〉はそれ自体で完結しておらず、周囲の手助けを借りて目的を達成するタイプのロボットである。別の言い方をすれば「周囲の手助け」を引き出す力を有している。そうしたロボットがいる環境では、人間はエージェンシーを完全に奪われたりはしない。「やれやれ、仕方がないからごみを拾ってやるか」という中動態的なエージェンシーが発揮されている。
Scrapboxも同じである。ツールに投げ込んでおけば後はうまいことやってくれるというものではない。そういうツールは一見便利なようでいて、ツールを使う人間からエージェンシーを剥奪してしまう。それは知的生産にとって致命的とも言える事態だ。
完璧でなくてもいいし、完全でもなくてもいい。というよりも、それを使う人の「手」をいつでも必要としている。だから手をかけることになり、それが知的生産を前に進めて行く。逆に、手をかける必要がなくなればなくなるほど、私たちの注意はどこか別のところに向かっていくことになる。
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2023年以降の我々は、ツールについての根本的な考えを改めていくのがいいだろう。それに委任すれば私たちは何も関与しなくてよい、というものを求めるのではなく、ツールと自分という二つの存在によって行為を為す、という考え方を持つのである。それはツールだけでも、自分だけでもダメなのだ。その二つの(ときにはそれ以上の)絡み合いによって、物事を進めていく。
そうした考え方は、自己啓発=資本主義が呪いのように植えつける偏った個人主義(「何事も自分の力で完全に解決しましょう」)からの転換につながっていくはずだ。