やあ、こんにちは。突然だけど、人間はいろいろなことを忘れてしまう。日々たくさんの情報に触れていながらも、その大半をロストしていく。悲しいことだね。
でも、完全に消去されているわけではない。人間にとっての記憶はそんなにクリアなものでもドライなものでもない。もっとねばねばした何かだ。
だから何かしらきっかけがあればそのことを思い出す。鮮明に思い出すこともあれば、おぼろげにしか思い出せないこともあるが、それを想起できる、という点は同じだ。
もちろん、その記憶が確かなものかはわからない。ちょっとした思い違いもあれば、完全に「ねつ造」されて思い出されることもある。自分一人ではその違いになかなか気がつけないところがやっかいだ。あれほど確信を持って「思い出した」ものも、調べてみればぜんぜん違った、ということは枚挙にいとまがない。それくらい僕らの記憶はあやふやだ。フラジャイルに揺蕩っている。
とは言え、思い出す記憶のすべてが虚偽に満ちあふれているわけでもない。むしろだいたいは適切な記憶が構成される。それを元に、他の人とコミュニケーションを取っても齟齬が生じない程度の安定性はある。完全ではないが、不全でもない。そういうものだろう。
なんにせよ、僕らの記憶は日々失われてしまうが、手がかりがあればそれを呼び戻せることは間違いない。というか日々失われていくのは記憶ではなく、その「手がかり」なのだろう。それが失われることによって、間接的に記憶が引きだせくなる。記憶関数に渡す引数が見つからなくなるようなものだ。
記録はそこで役立つ。書き残された記録は、まさに記憶を呼び出すトリガーとして機能してくれる。そうしたトリガーを引くことで、私は、つまり「今ここにいる私」は、過去の出来事に思いをはせることができる。「今ここ」から比喩的にも精神的にも離脱することができる。プリズン・ブレイクだ
私たち人間は、どうしたって「今ここ」にしかいることができない。しかし人間の脳は、さまざまな時間に飛び立つことができる。それは未来のことであったり(夢や計画と呼ばれる)、過去のことであったりと(反省や後悔と呼ばれる)、時間軸はさまざまだ。そのタイムスリップ=移動こそが、人間の知性をそれたらしめているとすら言えるかもしれない。
別段未来のことを考えたところで、その未来が実現するわけではない。しかし、自分を方向づけることはできる。「今からどんな一歩を踏み出すのか」を考えることができるのだ。同様に過去のことを考えても、その過去が変わるわけではない。しかし、そうして過去について考えたことで、「今からどんな一歩を踏み出すのか」を検討できるようになる。そのどちらもなければ、つまり「今」を相対化できる視点が獲得できなければ、私たちはただ「今」に生きるのみになってしまう。動物的な生に篭もることになってしまう。
私が思うに、人として生きることは一定量の「煩わしさ」を引き受けることだと思う。その内実は人の生によってさまざまだろうが、そこに「煩わしさ」という共通点があることだけは間違いないだろう。
そうした「煩わしさ」を完全に捨て去った生き方に憧れを感じることもあるかもしれない。空を舞うあの鳥たちのように、地上を狩るあの獣たちのように生きられたら、と。しかし、そのように考えること自体が「今の自分とは異なる」視点への移動であり、まさにそれが人間を人間たらしめているのであった。そのことについて落ち着いて考えてみれば、むしろ「煩わしさ」を完全に捨て去ってしまうことの恐怖が感じられるだろう。
ずいぶんと話が逸れてしまった。なんであれ、私たちはさまざまなことを「思い出す」ことができる。忙しい日々の中で忘れてしまうだろうけれども、それを「今」の時点に引き戻すことができる。
さまざまに残される記録は、まさにそのために、つまり「今」を生きるためにこそ効果を発揮する。その点を踏まえて、記録との付きあい方を再考していきたいものである。