以下の記事を読んだ。
最近良き個人ブログと出会えなくなったので、僕が購読しているブログを紹介するから、是非あなたのお薦めを教えて頂きたい | Hacks for Creative Life!
たしかにおっしゃる通りだ。10年前と比べると「良き個人ブログ」と出会いにくくなっている。上の記事でも指摘があるが、それは仕方がないだろう。
記事を書いてもたいして読まれない。新しいツールが出たら「専門家」がそれをやってくれる。PVがない記事はゴミだという価値観がある。書いたら書いたで誰かから文句を言われるリスクがある。アドセンスはぜんぜん儲からないし、アフィリエイトも同じだ。
こんな状況で個人ブログを書くモチベーションをどこに求めるというのか。世の中は新陳代謝で動いていて、旧いものが消えて新しいものが増えるというプラスマイナスで一つの層が維持される。増えることがなく、減るばかりなら、どんどん見つけられる可能性は小さくなっていくだろう。
だから私たちは以下の二つの問いに向き合わなければならない。
- なぜ書くのか
- 何を書くのか
アトミック・エッセイに学ぶ
「何を書くのか」についてはAtomic Essay(アトミック・エッセイ)の概念がヒントになる。
How to Write An Atomic Essay: A Beginner’s Guide
著者は上の記事で、次の5つのテーマがアトミック・エッセイの題材になると示唆する。
- Write about what you’re consuming.
- Respond or expand on someone else’s writing.
- Curate “the best of” any industry/topic.
- Teach a reader “How to” do something.
- Share a powerful life lesson you learned.
まず、自分が「消費」しているもの。よく見たり、聞いたり、読んだりしているものだ。本、番組、音楽、ブログ、ポッドキャスト、映画、エトセトラ、エトセトラ。拡張すれば、お気に入りの食品やお食事どころなどにも拡張できるだろう。ガジェットやアプリに展開してもいい。別にそうしたものについて批評的に論じろというわけではない。簡単な紹介と、簡単な紹介。それくらいで十分だ。できればスペックを紹介するだけでなく、一言コメントを加えてみる。あるいは、「面白かった」や「おいしかった」だけでなく、もう少しだけ表現に凝ってみる。そうすると書き物的な面白さが立ち上がってくるだろう。
次に、他人が書いたものへの「反応」だ。今あなたが読んでいるこの記事がまさにその例である。この場合、新しく考えをゼロから立ち上げなくてもよいのでラクチンだ。読んで考えたことを書けばいい。おそらく、他の人が書いたものを読んだことで「考え」が駆動しているので、その慣性をそのまま利用して文章を書く。もちろん「本当にその通りだと思います」だけだと少し寂しいので、なぜそう思うのかという理由もつけ加えると「文章」らしさが増すだろう。ただし、反論したい場合は、十分注意深くその文章を読むことだ。そうしないと、文章だけでなく恥も一緒にかいてしまう。
三つ目は、「キュレーション」だ。よい情報を厳選して送り出す。「プログラミングをはじめようと思ったときに手に取りたい3冊」といった記事がわかりやすいだろう。ここまで露骨(あるいはPVあざとい)でなくてもいいが、「何もかもが重要なので、何もかも手に取ってください」というのではなく、ある種の選択を提示してみるのは自分の思考トレーニングとしても有用である。
四つ目は、方法の提示である。何かをうまく達成するための方法。つまりノウハウだ。もちろん、個人の知識であるので単純な一般化はできないが、それでも他の人が見たら「えっ、それすごい」と思われるようなものを”名もなき”個人が有していることは珍しくない。そうしたノウハウを提示することで、他人に絶対に役立つとは言い切れないが、「役に立つかもしれない」程度の期待値を抱くことはできる。付言すれば、ここでは「どうだ、すごいだろう」というものを見せびらかすのではなく、自分にとって「当たり前」なことを書いた方が存外に喜ばれる。なぜなら、前者のようなものは商用のコンテンツとしてよく見かけるのに対して、後者はまさに個人ブログでしか読めないものが多いからだ。
で、最後は自分自身が学んだ人生の教訓である。こういう体験をして、こういう教訓を得た。そういうミニ・エピソードを開示すればいい。ここでは、ほんとうに重要なこととして、自慢話をしないことだ。そうではなく、失敗とそのリカバーというテーマの方がいい。自慢話をしたければ、お金を払ってお姉さんが面白そうに頷いてくれるスポットにいった方がいい。「私はこうして成功したのだから、あなたもそうするべきだ」というテンションは──書いている方は気持ちがいいのだが──読者のためにはならない。たとえほとんど誰にも読まれないにしても、「読むかもしれない誰か」に最低限度の礼儀は持っておいた方がいいだろう。
なぜ書くのか
以上で、何を書くのかの指針は見つかった。これくらいの軽いテーマなら、何か見つけることはできるだろう。問題は残る「なぜ書くのか」である。
正直、残されたこの問題に安直な答えは提示できない。「毎日少しでも運動しておくと、(統計的に)健康に良いですよ」くらいの話をするのが関の山だ。何かしらそれっぽいことを仕立てることは簡単だが──毎日ブログを書いているとそういう筋力は鍛えられる──、だからといってそれにリアリティを感じるかといえばノーである。
たしかに何かしら効果はある。良いこともある。もし均等な選択で片方に書くことが、もう片方に書かないことがあるならば、書くことを選んだほうが良いよとは言える。しかし、そんな均等な選択が出てくる場面はそう多くはない。人生はトレードオフであり、何かを手にすれば他の何かを手放すことになる。安易に見える選択も、その裏側ではさまざまなフラグが立ちそして折られているのである。
だから安易に「個人ブログを書きましょう」とは言えない。安易に言えないからこそ、一冊の本をかけてそのことを書いた。
この本に書いた気持ちは今でも変わっていない。もともと「成功するためにブログを書こう」などというメッセージではなかったので、”斜陽産業”と化したブログ界隈においても、私のメッセージは変わらない。
ブログを書くことで、「自分」の記録が残っていく。それは、自分が自分自身を理解する助けになるし、他の人が自分を理解する助けになる。そこから何が生まれるのかは事前にはわからないが、事前にはわからないからこそそこにはパワー(ある種の突破力)があると言える。
もう一つ、日々書くことは──先ほど書いたように──ある種のトレーニングになる。そのような能力を鍛えたいと思うなら、そしてハードすぎるトレーニングは自分には絶対に無理だと思うなら、日々書くことは「ちょうどよい」トレーニングになるだろう。人気を獲得するためでもなく、自己実現するためでもなく、日々落ち着いて考えること。あるいは自分の感覚や思索に注意を向けること。それを続ける意義は、それこそ本一冊を使わないと語り尽くせないだろう。
再度述べるが、しかしそうした営みは、別の営みのトレードオフとして存在する。だから、万人に向けて、何がなんでもやりなさいとは言えない。僕のような、あるいはベックさんのような、こうした「営み」(なんなら趣味)に興味があるならば、ぜひやってみる価値がある。言えるのはそれくらいである。