Sharing is Power!

方向修正

はっきり言って、ひどい事件である。

小学校6年生の子供が、同級生を殺意を持って殺した。

何度考えてみても、これはひどい事態である。

この事件によって、小学校でのカッターの使用の是非だとか、インターネットの使用の是非だとかが、すこし抜けたコメンテーターが意見するだろう。

が、それは方向が間違っている。

問題が起こった枝を一つ一つ切り落としていっても、結局幹がおかしければ、間違った枝は生え続ける。

われわれが考えなければいけないことは、「教育」される子供たちのことではない。
「教育」する大人のことである。

それは、教師達に問題がある、というレベルではない。
教師、親、その他もろもろの社会を構成する大人が深いそして、大きな心の病理を抱え込んでいる、ということであろうと思う。

子供は、周りの大人に大きな影響を受ける。
インターネットの広まりによって、その「大人」というものの範囲もかなり広がったかもしれない。

では、ネットから子供達を遠ざければよいのか、もちろん否である。
少なくとももう、そんなことができる社会状況ではなくなってきている。

ある一定の年代からは、ネットが使えるということがもう当たり前になってくる。
これは、政府や文部科学省の意思とはまったく関係なく動いている流れである。
それをとめることはできない。

また、ネットを関係を持っているのは、「子供」だけではない。
大人だって少なからず、周りの人間から影響を受けるのだから、ネットもその影響力の一部になりうる。

つまり、「子供」だけにネットを禁止したところで、根本的な問題の解決にならない、ということになると思う。

伝達力があり、形に残り、また相手の姿が直接見えないことで、過剰な意見が出やすい。それが、「ネット」である。

まず、そのことを大人がしっかりと理解するべきである。

そして、子供達にその情報をしっかりと伝えてゆく。

恐るべきは、人をあやめることではない。
人をあやめることに対して抵抗感が生まれない、ということである。

その抵抗感は、ひとりでに生まれてはこない。子供というのはいろいろな意味で無邪気なものなのである。
それは、「文化」なり「社会」なりが、生み出し、伝えていくものなのだ。

(自分を含め)人間をなぜ殺してはいけないのか?

そういう内省的な問いが、少しずつ失われているこの社会の方向修正が、本気で迫られていると思う。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です