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特異性の過剰な演出による円の中の安心感

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毎日のように様々な事件が起こる。
検証などしなくても、不幸な事件の割合のほうが多い。

そして、不幸な事件にもいろいろなタイプがある。

「たまたま起こってしまった」不幸な事件と、社会のゆがみから導かれる「起こるべくしておこった事件」である。

しかし、日本のメディアは、ほとんど全ての事件を「たまたま起こってしまった」事件のほうに分類してしまう。

もちろん、記事の表面には、たまたま起こった不幸な事件というようなことは書いていない。そこにあるのは、特異性の過剰なまでの演出である。

無残な殺人事件が起こったとする。その容疑者は「一見普通な人」でありながら、心の奥底にいろいろなものを溜め込み、そして・・・。
実にありがちなメディアの報道の一種である。もはやカテゴリー化しているのかもしれない。連日事件が報道され、容疑者に関して様々な報道がなされる。
そうした報道が積み重ねられていくうちに、いつの間にかその容疑者は「TVの中の人間」となってしまう。文物化といってもよいかもしれない。

あの人は特別だった、という状況はつまり、われわれとは違う、という雰囲気を作り出す。それは、もともと大きな円の中にいていた人をその円の外に排除するということである。
そうすることで、TVなどのメディアを見ている人間は安心感を得る。

安心感を得た人間は、そこから具体的な行動をとることはない。

本質的な議論は求められていない。本質的な議論に入ってしまうと、われわれはとたんに安全ではなくなってしまう。驚くべき事件が、実は誰にでも容易に起こりうる社会的な問題だと認識してしまうことは、多くの人にとって怖いことなのかもしれない。

しかしながら、そういう問題を、認識せずただ放置しておけば、どんどんと手がつけられなくなっていく。問題を解決するためのコストは、いずれ国民が支払いきれないものになってしまうかもしれない。そうなっってしまえば手遅れである。

多くの国民が、円の内側に閉じこもり、危険に満ちたその円の外側に恐怖し、目をそらしているだけなのかもしれない。
それは、日本国政府がおこなっている「先送り」となんらかわりない。

大きな事件が起こってしまったときに、その問題はなぜ起こったのか、そしてそれをこれからなくしていくにはどうしたらいいのか、という議論は大変時間がかかるはずである。「これは、こうだからこうですね」みたいな短絡的な意見は、だいたい全てを語っていないことが多い。そして全てを語っていないということは何も語っていないと変わりない。中途半端な安心感を与える分だけ有害であるともいえる。

日本という国全体(国家、政府、国民)が一つの円の中に閉じこもってしまっている、というのがかなり深刻な問題ではないか、私はそう思う。

2件のコメント

  1. TBありがとうございます。shiroです。
     共同体内の安定を図るために、共同体内の作法を脱線した人間を「異物」としてはき捨てる。人類の歴史上でずっとあり続けてきた形ですね。
     こういった円の中では、秩序は保たれるのかもしれないが、「多様性」から来る様々な「可能性」は失われてしまいますね。逆に言えば、「多様性」の多い国では、秩序が不安定になる。難しい問題ですが、それでも僕は、可能性が期待できる「多様性」のある社会がいいです。

  2. >shiroさん
    コメント、どうも。
    人類は常に「多様性」から来る「可能性」によって今の文明まで進んできたんだと思います。これからもそれが続くように私も願います。

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