えっと、どこから話を始めようか。とりあえず昨日の「素直になれなくて」というフジのテレビドラマがきっかけなんだけども。
ドラマの内容について云々書くことはあまり意味がないと思う。特にテレビドラマをほとんど見ない私が書いた感想などに一片たりとも意味はないだろう。まあそういうのは「待合室」の出番なのでこれを書き終えた後に思う存分書いてみたい。
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さて、書きたいことというか考えてみたいことの一つはあのドラマ中に感じた「違和感」だ。
違和感からの問い
「素直になれなくて」の中でTwitterが出てきていた。ドラマを見ている間、その役回りにどこかしらの違和感をずっと抱えていた。言葉で書けば「何か違う」という感触。
しかしながら、よくよく考えてみれば、Twitterの本質は「それぞれのタイムラインが好き勝手に違う」と言うことだ。この脚本家の視点から見たTwitterと私が描いているTwitterのイメージは違っていて当然である。そう頭では理解していてもぬぐえない違和感。その違和感はまだ使ったことの無い人にTwitterを説明するときのもどかしさと混じり合う。
突き詰めて考えてみると、「自分にとってのTwitter」が明確に定義付けできない、と言う事がこの違和感の正体ではないのか、という気がしてくる。それは逆に見れば
「じゃあ、自分にとってのTwitterって何だ?」
という問いになる。
自分が上手く説明できないものを、テレビドラマという限られた形、一つの視点、だけで語られてしまう_うまく片付けられてしまう_そんな感触が違和感の正体ではないのだろうか。少なくとも今はそんな風に考えている。
Twitterって何なんだ、ということを「機能」を切り口にして語ることはたやすい。なんと言ってもシンプルさがTwitterの売りだ。しかし、それだけでは足りない。その機能の説明だけを聞いて、今私が感じている「Twitterの良さ」というものを伝えることはできない。
しかし、ここに問題が一つ上がってくる。「私の面白さ」と「あなたの面白さ」は違って当然、と言うことだ。そしてその違いを許容してなお余りある力がTwitterにはある、ということだ。
例えば、昨日のドラマを見ている(というか単につけてるだけ)間、TLに張り付いていた。そこでは単なる批判や、脚本家への批判、一歩引いた視点からの意見や、もしこうだったらという仮想展開、二次創作とも呼べる展開など「共通の話題ではあるが全く別な事」が繰り広げられていた。正直言ってドラマよりも、それを中心として展開されるTLの方が遙かに面白かった。そう、それがTwitterの面白さなわけだ。
残念ながら私のTL上であのドラマに高評価を与えている人が存在しなかったので(数学的に奇跡的な偶然だろう、きっと)、そういった人たちの意見を目にできなかったのは残念ではある。でも、批判の仕方にもさまざまな視点ややり方が見られたり、二次創作的展開の方向性は斜め上過ぎて予想することもできなかったり、とコンテンツを取り囲むコンテキストが新たなコンテンツになっていたことは間違いない。
例えば2ちゃんねるのような掲示板の場合、文脈の方向性は単一になりがちで、その型にはまるものは盛り上げられ、そうでないものは無視されるかあるいは、極端な否定されやすい。
※掲示板などを余り見ないので、これは私が知っている極端な事例だけなのかもしれないが
が、TwitterのTLはさまざまな文脈が生息し、発展している。もちろん自分もどこかの文脈に加わることも出来るし、新しい文脈を生み出しても良い。こんな楽しいことがあるだろうか、とまで考えて、はたっと気がつく。マスメディアはこうして死んでいくのだろう、ということに。
もちろんマスメディアは死なないのかもしれない。マスに向けて発信するメディアはしぶとく生き残るかもしれない。しかし、それが「単一的な文脈」で理解されることはもはや無いだろう。1ソース→1ニュース→1コンテキスト、という事はもはやあり得ない状態に近い。
ここで問題にする1コンテキストというのは、それほど簡単な意味合いではない。一つの記事をどう解釈するかはマスメディアの時代から多様性がある。重要なのは、自分が持ったコンテキスト以外の存在を知ることができる、ということだ。しかも有識者でも政治家でも学者でもないごく普通の「隣人」のコンテキストを。
これは「一億総中流」つまり「みんな大体同じ事考えている」と考えている状態からの脱却ということだ。自分以外の考え方は多数ある。自分の考えは絶対的なものではない。他の人は別の考え方をしている。そういうのが「当たり前」になる世界。そういう世界ではマスメディアなどほとんど何の権威にもならないだろう。あまたある意見の中の一つの意見。ただ、それだけ。
日本だと「あのドラマ面白いよね」という話題が進行している中で「いや、全然面白くないし、あの脚本は何にも理解していないよ」と言うことは非常に言いづらい。少なくともそういう方向性を持った空気というのはある。5人の内3人が面白いという意見を表明してしまうと、残り2人も自分の考えをうやむやにしてその場の空気に合わせる。すくなくともその方が楽だ。
そして、「なんとなくあのドラマが面白い」という意見が出来上がる。実は面白くないと感じていた2人は、もう片方も面白くないと思っているという事すら知ることもなく。そういうのが今までの日本だったのではないかと思う。私はそれを数の暴力といった事で非難したいわけではない。ただ、「空気」の持つ力は個人の意見を簡単に薄めてしまう。それはさらに「個人の意見なんてどうでもいい」という風潮すら生み出してしまうかもしれない。
しかしながら、TwitterのTLで流れるのはことごとく「自分の意見」だ。もちろんひたすらRTばかりする人もいるが、それですら一つの意見の表れである。そこにはジャングルの奥地のような「意見の多様性」が見て取れる。さまざまな生物が共存し、競争し、共生している世界は皆が好き勝手に行きながらも、その環境は豊かに保たれている。ある生物がある生物を食物として扱ったとしても、その存在を否定することはない。誰一人環境のバランスについて考えなくても、環境のバランスは保たれている。そんな世界。
と、ここまできて再び思い悩む。一体全体これをどのように説明すべきなのか。あなたにとってTwitterは何?と訊かれたときに
「ジャングルの奥地のようなもの」
と説明したとして、どれだけの理解が得られるだろうか。結局言葉による説明はどこにも行き着けない。ジャングルの良さあるいはすごさはきっと現地に行かなければ理解できないように、Twitterのそれも同様だろう。
だったらもう、間口はどんどん広げて楽しめる人だけ楽しんだらいいじゃないか、という気がしてくる。それは投げやりでも何でもなく、「楽しめる人だけが楽しめるツール」としてTwitterが背負ってしまった業のようなものなのかもしれない。一人一人が自由に使えるツールと誰しもが同じように楽しめるツールは相成れない。それはレゴブロックと最近のテレビゲームぐらい異なったものだ。
いろんな意見も、ネガティブな意見も、批判的な意見も、底なしにポジティブな意見も、まったくもってどうでもいい話も、ちょっと引くぐらいのエロポストでも、それがあなた自身が選択したTLなんだ。そういうTwitterのあり方に私は心引かれる。それはまるで人生のメタファーのようでもある。
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なんてことを考えてたら、ドラマの筋がまったく頭に入っていなかったので、多分来週は見ないと思います。では長文失礼しました。