たまたま仕事で起きていたので、5時46分に短い黙祷をささげた。
多くの無くなった人のことを思い、悲しい気持ちに包まれながら頭を垂れた。
10年という時間は長いのだろうか、短いのだろうか。
おそらく地震という出来事を忘れるほどには長く、死というものを忘れるには短い時間であろう。
近畿圏で生活していても、気がつくと地震があったことは心の中の片隅のほうに追いやられ埃をかぶってしまう。
「たった一秒先が予知できない人間の限界」
これは重い言葉だ、そして心に刻み付けておかなければいけない言葉だ。
人間は万能でもなんでもない、一瞬先にはどうなってしまうかなんて誰にもわからないのだ。
我々が地震で無くしたものはあまりにも大きなものだ、それと引き換えに「何か」を手にしなくてはいけない。悲しみや喪失感というもの以外の我々の栄養分となる何かを見つけ出さなくてはいけない。
あんなことはもう忘れてしまいたい、という人もいるだろう。そういう人は忘れていいと思う。でも「我々」はそれを覚えておかなければいけない。
もし、全ての人々があの地震をただの出来事として捉えるようになっては、あまりにも悲しすぎる。
地震は人々に教訓を与えるために起きたのではない。が、そこから何か学ばなければ我々はただ失い続けていくだけの存在になってしまう。
人は環境という土を与えられ、経験という水を得て成長していく。