戦後日本の復興にぴったりとフィットしてきた日本の公教育が今さまざまな問題に直面しているという認識は私だけでなく、日本人の多くの人が持っていることだろう。
多少長くなるかもしれないが、戦後から現在そして将来というタームでの教育の体制とその問題、新たなる教育への歩みというものを考えていきたいと思う。
まず、第一として少なくとも現在成人になっている多くの日本人がかなり高等な知識を教えてもらっているということだ。世界的な標準から見れば知識の水準はいまだに高いレベルであるし、識字率も高い。
これは日本で生活していると見えてこないありがたさであるが、結構重要なことである。
しかしながら、「教育」に関係してさまざまな問題が起こっていることもまた事実だ。
現在の教育が抱えている問題とは何であろうか。
教室の質の低下、学級崩壊、私立と公立の激しい乖離、・・・。
あげて行けばきりが無いほどであるが、根本的な問題は「教育」が社会の現状とズレていることであろう。それによってさまざまな問題が引き起こされているように思える。
学校なんて必要ないと子供が思っていれば、学校は必然的に機能しなくなる。
戦後、経済復興に同調して日本の教育というのはうまく機能してきた。
効率さ、利発さということよりも、単純労働力の提供が社会で必要とされてきて、
学校はそういう人材を社会に送り出していた。
その時代は、個を求めることなど二の次で、日本全体が一丸となって必死に物を作っていかなければいけない時代であった。
これが、第一時期であったといえる。
そして、日本が高度経済成長のピークに達したとき、求められる人材は多少変わってきた。企業は大量に人材を必要としていたので、細かい面接を行って人材を探すよりも、単純な学歴で判断することにより効率化を図った。
そういう社会においては、高学歴であることがそのままメリットになった。
学校も生徒に高学歴を推奨し、親やその他のメディアもそれを必然的に背中を押して言った。
これが第二時期。
そして、近代化を終えた日本。社会が求める人材は再び変化してきている。
オートメーションがどんどん進んでいく中で、ある種の奇抜な考え、独特の個性、といったものを持っているほうが、自分をアピールしやすくなってきた。
かつ、会社に勤めるだけが職業の選択肢という事態も本当はなくなってきている。
そして、学校はそれに見合った教育がおそらく見つけられていない。
これが第三時期。
この第三時期を抜けて、もうひとつ次のステップというものもあるだろう。
我々の課題はその第四時期をいかに作っていくかということになる。
問題は、第四時期を考える上で、一から三までで有効に機能していたものがほとんど役に立たないということだ。
おそらく一から三までの時期の間は「学校」というものの意味合いが多少であっても共通点があった。が、これからは「学校」そのものの意味合いというものが変化せざる得なくなってくる。
次は、「教育」と「学力」と「学校」というものについて考えてみたい。