Sharing is Power!

新しい物々交換社会

現在の音楽業界の状況や、これからやってくる電子書籍がもたらす物が、社会にどのような変化を与えるのか、ということをぽつぽつと考えている。

それは、もしかしたらドラスティックな変化ではないのかも知れない。経済学者やマーケティング担当者があれこれいじり回す砂場ではなく、もっと現実的で卑近で日常的な変化、なのかもしれない。

産業構造の変化

産業は第一次、第二次、第三次というような分類のされ方をする。いちいち文献をあたるのも面倒なので、さくっとウィキペディアから引用すると

第一次産業 - 農業、林業、水産業など、狩猟、採集。
第二次産業 - 製造業、建設業など、工業生産、加工業。電気・ガス・水道業
第三次産業 - 情報通信業、金融業、運輸業、小売業、サービス業など、非物質的な生産業、配分業。

こういう分け方だ。これをレイヤー構造として見ることもできる。つまり土台が第一次産業でその上に二次、三次という層がのっかっている、という形だ。食料品が、農業→加工業→小売業というルートをたどることを考えれば、これを理解することはたやすいだろう。しかし、これはピラミッド型であるとは単純に言い切ることはできない。現状の世界を見回しても、動いている金額が一番大きいのは第三次産業であろう。特に金融業は相当の規模のお金が動いている。その理由についてはいろいろな理屈を引っ張り上げることはできるだろうが、極端なことを言えばこれらの産業を接続しているのがお金だからだろう。

物々交換の仲立ち

例えば第一次産業だけに焦点を絞って考えると、農業をやっている人は自分の手で何かを生産している。まあ機械を使うかも知れないが、自分で作っていると表現しても差し障りはないだろう。もちろん農業をしている人は自分で作った物を自分で食べる(自給自足)でやっていけるかも知れないが、時には魚が食べたくなるかもしれない。あるいは家の中を暖める薪が必要かも知れない。そう言うときには、自分が作った物を差し出して、相手が作った物と交換してもらうことができる。もちろん両者がその交換に納得すれば、という前提条件が付くが。これが原始的な経済活動だ。

ただ、作られる物の種類が増えてきたり、あるいは「保存性」の観点から交換できる物に有利不利が出てきたり、とさまざまな理由から、間を取り持つ物の必要性がでてきた。それが「お金」である。小難しく言えば貨幣だ。まあどっちでもいい。とりあえず、押さえておきたいのは「お金」というのは約束事でしかない、と言うことだ。本来のお金というのは「物と物が交換される前の中立的な形態」でしかない。だから限りなく極端に誤解を恐れず言えば、「お金(というシステム)は無くてもよい」と言える。それと同時に「あったら便利」であることも間違いない事実だ。

社会的動物とマーケティング

さて、話はぐぐっとかわる。人間という存在についてだ。人間というのは「~的動物」という表現をされる。「~」に入る言葉がたくさんあるが、「社会的動物」という言い方はかなりしっくり来るものだ。
※人間以外にも社会的動物というのは存在する。

人間は社会をつくって、その中に住む。そういった行為を好む。ポイントは「社会」というのが大きな単一の物ではない、ということだ。その中には細分化された社会_小社会_が多数存在し、人はいくつかの社会を抱え込みながら生きている。例えば「役割」という言葉に置き換えればわかりやすいかも知れない。いろいろな局面でいろいろな役割を担い、それをこなしながら生活していく。人間はただ人間であるだけではすまないのだ。

現実社会を見れば、人間が多くの役割を抱えている、という事実はすぐにわかる。しかし、それに相反する行為がある。それが「マーケティング」だ。特に近年のマーケティングは、「より細分化された個人像」を追い求めてきたような気がする。年齢、性別、住んでいる地域、趣味、収入、家族構成、エトセトラ、エトセトラ。

これらのデータは実際の人の生き方からではなく、その商品はどういった人に売れるのか、という視点から逆にセッティングされている。データをわかりやすく、かつ理論的に見せるために人が持つ多義性というのは切り取られてしまう。

もちろん、これらの手法は効果を上げていた。それはマスが機能していたからだ。マスが機能しているとは、つまり「モデル」が成立するということだ。25歳の都会に住む会社員で一人暮らしの男性はこういうスーツを着なさい、こういう腕時計をしなさい、こういう車に乗りなさい。だって、みんなそうしていますから。というわけだ。マーケティングがモデルを作り上げ、それに追従する流れを生むことで商品が売れる、という時代が確かに存在していたのだろう。しかし今はマスがあまり機能しない。マスが機能しないとモデルもまた機能しない。今までのマーケティング手法が通用しないとするならば、それは当然のことだろう。

「綿密」なマーケティングがもたらす問題はそれだけではない。とある属性(年齢、性別、エトセトラ)を持つ人向けて提供される商品というのは、違う属性の人と共有することがかなり難しくなる。一人の子持ちのお父さん向けに開発された商品は、それが適切であればあるほどお母さんや子どもとは共有できないものになってしまう。結局個人で楽しむか、同じ属性を共有する人たちで楽しむか、という選択になる。これは異種間での人と人とのつながりが失われてしまう可能性を秘めている。

個人がもつデータを細かく取れば取るほど「マス」は消え去る。そしてその切り取ったデータに基づいた商品を提供することで属性が同じ人たちがタコツボ化する。前者は個人の多義性をつみ取り、後者は人間の関係性の多義性を削る。

結局「国民全員が共有できる」とか「日本の男性ならこれはもっとけ」みたいな商品は姿を消す。例えば昔は車を持つことがステータスだった。だから車にまったく興味が無くても「とりあえず」車に関する知識を仕入れる必要があった。別にマニアにならなくても、ある程度車について知っておかなければならなかったわけだ。しかし、今では違う。「車には興味がありません」といえばそれで終了。それが良いのか悪いのか、私には判断できない。しかし、マーケティングという格子状で区切られた檻の中に入ってしまい兼ねない状況を生み出していることは間違いない。

その中で一番の問題は、その檻がどんな豪華で立派な形をしていても「消費者」というネームプレートだけは決して外れない、ということだ。

まとめ

なかなか回りくどい話だったが、ようするに「高度経済成長期」の日本では大半の人が「消費者」として生きてきた、ということだ。少なくとも企業からはそうやって見られていた。しかし、それが変化する時代が来たのではないか、という思いがある。誰しもが「消費者」でありながら「生産者」である時代。消費者として切り取られた存在ではなく、消費者と生産者が同居するようなあり方。そういうものが生まれてくるのではないかと思う。おそらく今後の企業のマーケティングもそういった人の多義性を前提とした組み立て方をする必要があるだろう。

電子書籍や音楽業界に限ったものではなく、ブログ、Twitter、Facebookというようなネット上の活動は「消費」と「生産」を同時に含んだ物だ。「生産」に関わる割合が多い人もいれば、少ない人もいるだろう。しかし、何かしらの形で「生産」とは切っても切れない社会が今後やってくるような気がする。

今だって近しいことはいくらでもある。例えばここでこうしてブログを書いている私に「献本」がやってくる。それは「その本」と「その本を紹介する」という行為が物々交換されているといっても良いだろう。私がひとまとまりのエッセイを書けば、それをどこかのミュージシャンが「自分の作った楽曲と交換して下さい」というような話もあるかもしれない。少なくともそういう可能性はいつでも眠っている。これは新しい形の物々交換社会の一部分を「フォーカス」したものと言えるだろう。

これから生まれようとしているものは、第一次から第三次までの産業構造の中にあるものではなく、その外に広がる「お金を介さない」報酬や恩恵というものが当たり前にやりとりされる社会の形なのかもしれない。

参考ウィキペディア:
産業:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%A3%E6%A5%AD
社会的動物:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E7%9A%84%E5%8B%95%E7%89%A9

▼こんな本なんかも

電子書籍の衝撃 (ディスカヴァー携書)
電子書籍の衝撃 (ディスカヴァー携書)
ディスカヴァー・トゥエンティワン 2010-04-15
売り上げランキング : 320

おすすめ平均 star
starまずはこれを一冊読んでから…
star一推論として楽しめる
star2010年春の今が旬の「電子書籍の衝撃」

Amazonで詳しく見る by G-Tools

小さなチーム、大きな仕事―37シグナルズ成功の法則 (ハヤカワ新書juice)
小さなチーム、大きな仕事―37シグナルズ成功の法則 (ハヤカワ新書juice) 黒沢 健二

早川書房 2010-02-25
売り上げランキング : 646

おすすめ平均 star
star純粋にに普通に突き詰めた、シンプルな解かと。
star才能集団によるWEBアプリ開発+宣伝ノウハウ
star小さくはじめること

Amazonで詳しく見る by G-Tools

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です