5-創作文

グラスとウィスキー

「ここにグラスが一つあるとする」
明らかに酔っ払っているとわかる大声のオジさんが僕の一つ向こうの席でネクタイを固く結んだままの若いサラリーマンに話かけている。深夜1時のマクドナルドだというのに大変だ。いったい何が彼のネクタイの解放を阻んでいるのだろうか。

「そのグラスの中には、ウィスキーが入ってる。わかるだろ。」
若いネクタイが首を下げる。とりあえずそうしておくのが世の中のシキタリだから仕方なく、みたいな頷きだ。

「ちょうど半分のウィスキーを見て、まだ半分入ってるとか、もう半分しかないとか、そういう考え方が大事なんて言うやつがこの世界には腐るほどいるよ」
ネクタイは若干同意の意を込めて頷く。聞き耳を立てている僕も頷く。そういう奴は確かにイッパイいる。
「でもな、本当に重要なのはそんな事じゃないんだよ」

ほんの少しだけ間合いが空く。まるでその言葉を消化するのを待つみたいな間が。
「本当に重要なのは、そこにウィスキーが入っていて、時間がたてば、ほっといても蒸発してしまうってことだよ。なぁ、わかるか」
「中身の量についてクドクド考えている暇があるんなら、とっととグラスを掴んで飲んだ方が俺にとってもウィスキーにとってもいいってことだよ」
そういいながら彼は仮説的なグラスを掴んで、架空のウィスキーを飲み干した。

「これが、ウィンウィンってヤツだろう。そこを勘違いしちゃいけない。ウィスキーは誰かに飲まれるために作られてるんだ。あれやこれや考えている間に、ちょっとずつ蒸発していってしまうんだよ。誰に飲まれることもなく、な」

今度は少し長めの沈黙。
「立ち止まって考えてみるのも重要かもしれない。でも、ウィスキーは飲まれるためにあるって事だけは外しちゃいけない筋さ。そこさえ外さなければ、どんな飲み方をしてもかまわんよ」

彼は再び仮設的なグラスをテーブルの上に置く。まるでハンコを待つ契約書みたいに、それをネクタイの方に押しやる。ネクタイは何もしゃべらずどんな動きもしない。ただじっとテーブルの上のグラスが存在するであろう空間を見つめている。

あまりの沈黙の重さに僕は視線を戻す。すると、僕のテーブルの上にもそのグラスが置かれている。まだ(もう)ウィスキーが半分はいったグラスが。
そこではじめてネクタイが動けない理由を理解する。グラスを飲み干すという行為がどれほど重たいのかは、グラスを目の前にしてみないとまったくわからないものなのだ。ジワジワと蒸発していくウィスキーを見ながらワイワイと議論だけしているのが、どれだけ楽なのか。

「そうやって身構えて考えてる時間だけウィスキーは蒸発していくんだぞ」
彼はそういう。僕もおそらくネクタイもそれは充分理解している。でも、それは頭の中で区分けされた部分の中でのことだ。理解するという事がこれほど無力であるのを感じたのは、これが始めてだった。
「俺はな、お前に無理矢理ウィスキーを飲ませるなんて事はしたくないんだ。お前が自分の手でそのグラスをつかむしかない」
ネクタイはようやく一つ深く頷く。
「今日の所はそれがわかってもらえりゃ充分だ。始めから一気に飲み干せるなんて期待しちゃいないよ」
まるで準備してあったかのような苦笑を浮かべ、彼は仮説的なグラスをもう一杯空にする。そして二人はマクドナルドから出ていった。

僕の目の前にあるグラスはまだそこにある。多分目に見えないくらいの量のウィスキーはすでに蒸発してしまったんだろう。それは注意して見ていないと無くなった事に気がつかない。それぐらい少しずつしか蒸発しない。でも、それは確かに失われているのだ。

僕は誰もいなくなった深夜のマクドナルドの中で目をつぶり、仮設的なグラスを一気に飲み干す。カラッポになったグラスは姿を消す。でも、きっとまた別の場所、別のタイミングで現れるのだろう。そうやって、一つずつグラスを片付けていく事しか僕にはできない。かわりに片付けてくれる人など僕にはいないのだから。

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