自分の手でゴルフクラブを握るまでは、プロのトーナメントをそれほど面白いと思ったことはなかった。競技自体は結構好きなのでちらちらとは見るが、「熱心」とはほど遠い心理状況だったと思う。なんだかんだいって、その「難しさ」が何一つ理解できていなかったのだ。
実際にやってみるまでの間、私の中のゴルフのイメージはゲーム的なものしかなかった。クラブと方向を選んで、パワーと打点のゲージを見ながらポチっ。風の影響を受けながらもボールは想定した所へと飛んでいく。
操作にさえ慣れてくれば、あとは単純に「戦略のゲーム」でしかない。そしてゲームであるから操作にはすぐ慣れる。そういう視点で見ると、プロの試合であってもゴルフ番組は少々退屈なものだ。
しかしながら、実際にやってみるとそれが大きな勘違いであることを知る。いや、体験する。
まず、ボールを真っ直ぐに打つことすら難しい。右や左に曲がることなんてざらであり、ダフったり、トップしたりして飛距離が全く出ないことも普通にある。アイアンはなんとか使えても3番ウッドはちょっと・・・というような事もある。自分のフルスイングでどのくらいの飛距離がでるのかもわからないし、風速が画面端に表示されているわけでもない。
「戦略のゲーム」にたどり着く前に、圧倒的な技術力が必要なのだ。これはすごく当たり前の事だ。だって彼らはプロなのだから。でも、テレビやゲームでしかその世界を知らないと見失ってしまうものは多い。「技術力」がどのくらいの練習量や経験によって裏づけられているかは、その世界に足を踏み入れてみないと見えてこないのだ。
フレージングの例
これは「文章力」についても同じ事が言える。多くの本は著者が必死に文章をこしらえて、その上編集者の手が入っている。私たちの目に入るのは、「読みやすさ」に配慮された文章ばかりだ。するとゴルフと同じような錯覚に陥るかもしれない。つまり、クラブを力一杯振れば、ボールは真っ直ぐ前に飛んでいく、というような錯覚。
しかしながら、ありがたいことに文章に関してはこういう錯覚から逃れる手段は豊富にある。
例えば世の中には「悪書」というものがある。内容云々よりも、文章の推敲がほとんどされていないのではないか、と疑いたくなるような本だ。こういう本を読むと改めて多くの「本」が読者を意識して書かれてある事が理解できる。あるいは、ウェブ上の文章でも同様だ(実例はあなたが今目にしている)。
もっといえば、紙とペンあるいはテキストエディタとキーボードを持ち出してみる事だってできる。クラブセット一式を揃えてコースデビューするよりは簡単だろう。何か自分が考えている事を適当に書いてみればよい。その文章を3日寝かして見返す。時間があれば一週間。おそらくものすごく読みにくい文章をそこに発見することができるだろう。
例えば、
おそらくものすごく読みにくい文章をそこに発見することができるだろう。
なんていう文章もその一例だ。まあ意味は通る。でも読みやすいかというとNoだ。書き換え方はいろいろある。
読みにくい文章がいくらでも見つけられるだろう。
自分でも唖然とするような文章が並んでいるかも知れない。
読み返すと、自分の文章にひどさに苦笑するかもしれない。まるで初めてゴルフクラブを握ったときのように。
自分の文章力のなさに泣きたくなるかも知れない。
こういうフレージングは単に引き出しの多さであり、技術的な問題だ。前後の文書の関係性から適切と思えるものをチョイスすればよい。
読まれてナンボ
それ以外の技術もある。例えば「理科系の作文技術」という本に「文は短く」というアドバイスがある。私はあまり「作文術」的な本を読まないので推測でしかないが、「文は短く」はこの手の本に出てくるのだと思う。
私は「短文原理主義者」ではないが、それでも長い文は書かないように心がけている。主語と述語が極端に離れているような文章は読み手の負担になるからだ。
例えば、
ソーシャルブックマークサービスは濃縮された長期的に有用で自分の頭で考える材料に使えるようなエントリーではなく、単に「わかりやすい」衣裳をまとわせ、短期的かつ簡単に効果が出るような印象を与えるようなエントリーが毎日のようにトップリストにあがってくるので、常なる話題を必要とする現代にはありがたい存在かも知れないが、真の意味で自らの役に立つ有効な情報収集にはあまり適していないと一般的に思われている節がある。
というような文章だ。できるだけ頑張って書いたが、これでもまだ「マシ」な方である。
文章的素人というよりも、学者さんとかお偉いさんの中にこういう文章を書く方をお見かけする。そういう文章は漢字の密度が異常に高いか、わけのわからないカタカナ英語が頻繁に出てくるので読みにくさに拍車がかかっている事が多い。
文章は「読まれてナンボ」である。「読まれる」というのは読者が目を通すという行為ではない。読んで頭の中に入れるという行為だ。そういう意味で上のような文はあまりいただけない。こういう文章を避けるための技術(というか心がけ)みたいなものはいくらでも見つけることができるだろう。
さいごに
これからソーシャル・メディアが一般的になってくるならば、「伝えるための文章」を日常的に使う人も増えてくると思う。そういう文章を書くのは一見簡単そうに見えるが案外難しい。
しかし、それに「才能」はあまり関係がない。単に「技術」の問題だ。体系的な知識と練習によって身につけることができる。逆に言えば初めはできなくても気にする必要はない。
文章を使って何を表現するかという「戦略のゲーム」について考える事も大切だが、それを支える技術力についても気をつけておいた方がよい。それは一気に身につくものではないし、一度身につけたからといって向上させなくてよいというものでもない。
技術力向上のために必要な事?
▼こんな一冊も:
理科系の作文技術 (中公新書 (624)) |
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木下 是雄
中央公論新社 1981-01 おすすめ平均 |
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