たまに自分の持っている「セルフイメージ」と外部からの評価のギャップに戸惑うことがあります。例えば、先日の名古屋オフの時。「論理的な文章展開」とか「圧倒的なアウトプット」とか「ネガティブな要素がなさそう」とか、そういった評価をいただきました。これらの何一つ、私は自分では意識していません。
別に意識してようが、していまいが私の日常生活に支障が起きるわけではないのですが、「どうして〜なんですか」「どうやったら〜できますか」みたいな質問に転換されると、若干対応に困ることになります。率直に答えれば「わかりません」だし、哲学的なエッセンスを振りかければ「自分らしく生きることです」みたいな、なんの役にも立たないアドバイスになってしまいます。
というわけで、今回はそういう評価について自分自身の側からちょっと考えてみることにします。
論理的という評価
例えば、@kazumotoさんのブログd the meaning of my life.)で私のメルマガを紹介してもらったエントリー「R-Styleを利用しよう!-Weekly R-style Magazineの活用法」。
R-styleを主宰している倉下忠憲さんが毎週発刊しているメールマガジン「Weekly R-style Magazine〜プロトタイプ・シンキング〜」がそれです。沢山の読書量と、鋭い考察力、深い洞察力、お手本のように論理的でありながら平易な文章。
あとは、@uma_blueさんの「日刊 あおのうま」での名古屋オフの感想エントリー。
五感を活用できるアナログツールのアドバンテージを活かしつつ、
Evernoteなどデジタルツールの持つ検索性でそれらの苦手部分をカバーする。
明確な根拠に裏打ちされた提案。
「論理的」「明確な根拠に裏打ちされた」という評価をいただいております。しかしながら、私自身「論理的な文章を書こう」なんて一秒たりとも考えておりません。であれば、なぜこのような評価を得られるのでしょうか。
そういう事を自分なりに考えていると、名古屋オフの二次会で@hiro45jpさんがお話しされていたコンサルタントを進めていく上での手法が思い出されました。実際どんな手法をとられているかについては割愛しますが、ようするに求める結果を得るためにどうすればいいかを逆算して最適なルートを通る、という手法です。合理的ともいえますし、あるいは戦略的といってもよいでしょう。
私に対する「論理的うんぬん評価」はそこから来ているのではないか、という気がします。
基本的に私は「ひねくれもの」だし、とても「疑り深い」性質を持っています。そういう自分に対して自分が何かしらの説得をしていくためには、なかなか手間がかかります。
例えば「手帳に書けば夢が叶う」とか「Evernoteを使えばハッピーライフをおくれる」みたいな文章はとても魅力的に映ります。すくなくと、そう書けば誰かしらのココロにうったえかけることはできるでしょう。でも、そういう文章には常に懐疑のまなざしを向けてしまいます。「ほんとにそうか?」「反証しうる事例はないか?」
私は自分がその時に「信じていること」しか書きません。ということは、ここに書かれている文章は多かれ少なかれ私自身の「ほんとうにそうか?」という問いかけをくぐり抜けてきている事になります。おそらく他の方も何からの形で「ほんとうにそうか?」という問いかけをしておられると思いますが、私の場合はそれが若干病的というか粘着気質的な要素を帯びているのかもしれません。
私が自分の考えを文章に起こすというのは、そういう「ひねくれ者」に対する説得作業の過程を表現する事とイコールの関係にあります。そういうのが他の人から見た場合「論理的」と評されるのではないかと思います。
さいごに
重ねて言いますが、私自身「論理的」な文章を書こうとも思っていませんし、そんな文章が書けているとも思いません。ただ、「ひねくれ者」の自分を納得させられるだけの材料を一つ一つ積み重ねていっているだけです。
ということは、他の人から「論理的な文章」を評されるようなものが書きたければ、身近に「ひねくれ者」をセッティングしてその人を一度説得してみればよいのではないかと思います。徹底的に反論されるでしょうから、それを一つ一つ潰していき、最終的に納得してもらう。それができたら、その流れを文章化する。それで「論理的」な文章がきっとできあがることだと思います。しかしまあ、相当な「精神力」が必要な事はあらかじめお断りしておきます。私の知る限り「ひねくれ者」はそういう「議論」が大好きなので乗りに乗って反論してくれることでしょう。
あと、もう一点だけ付け加えればそうやって作られた「ガチガチ」の文章でははてブはまず稼げませんのであしからず。はてブにはちょっと「隙」みたいなものが必要です。
@rashita2 さん、ひねくれ者からの質問です。
私には、@rashita2 さんのお話が大変しっくりくるのですが、同時に疑問と言うか、気になることがあります。
今回の記事の手法って、練磨されていくと、インプットに対してオートでアウトプットが決まるようになって、あまり考えない様になっちゃいませんか?
※私は長いことその状態で、「外部からの刺激に対して行動が決まっているなんて、まるで虫のようだ…。orz」と、凹みながら脱出口を捜索中です。
>あおのうまさん
どうも、「ひねくれ者」からの質問は大歓迎しております。
確かに「ひねくれ者」が定点であれば、この手法は慣れれば慣れるほど硬直化していきます。
ポイントは、「ひねくれ者」もまた成長していくという事です。「ツッコミ力」「疑問力」と言葉はなんでもいいですが、そういうスキル(思考)を高めていくことができれば、同じ手法を使っていても硬直化はしないのではないかと思います。
要は、「書き手としての自分」と「ひねくれ者としての自分」がスパイラル的に上に上がっていくようなそんな感じをイメージしております。なのでいくら階段を上っても終わりが見えてこない印象があります。いまのところは。
回答ありがとうございます!
調子にのって、また質問です。
「ひねくれ者」あらため、「お調子者」です。
上昇するには、取っ掛かりが欲しいところです。
硬直化せずに上昇スパイラルに乗る取っ掛かりとして一番有効なのは、「外部からの刺激」。
それは人との交流であったり、自然の中の法則であったり。
小さな自分の「理」を超えたところにある様々なアウトプット。
ってのは、ありですか?
あと、それ以外に「これもあるよ」とかありますか?
>あおのうまさん
では、こちらも調子にのって続けて回答します!
確かに「外部からの刺激」は有効な手段だと思います。
でも、それをどのように捉えているか、には結構大きな違いがあるのかもしれません。
極論言ってしまえば、私たちは日常的に「外部からの刺激」を受けています。
つまり自分自身を閉じた一つの系としてみれば、ありとあらゆる「刺激」は外部からのものと言えます。
それを無意識が意図的に取捨選択しているわけです。
二つ言えることがあると思います。
一つは、有名なセミナーや著作などではなくても、意識を広げればいくらでも「外部からの刺激」は得られるということ。
もう一つは、意識的に「外部からの刺激」を選択すること。
「おもしろそう」な「外部からの刺激」に全て反応してしまえば、あっちいったり、こっちいったりという事になりがちです。
むしろ何か一つ(あるいは二、三個)の指針(方向性)を決めて、それ以外の「外部からの刺激」には反応しない、という方法がありかもしれません。
具体性に欠けるアドバイスですが、何かしらのお役に立てれば幸いです。
充分に具体的です!
ありがとうございました。m(_ _)m