本の紹介

書評 『大局観』(羽生善治)

勝負事にとって「大局観」というのは欠かせないものだ。本書で語られる将棋の世界、あるいは囲碁でもそうだろうし、私が傾倒する麻雀の世界でも同じことがいえる。

大局観 自分と闘って負けない心 (角川oneテーマ21)
大局観  自分と闘って負けない心 (角川oneテーマ21) 羽生 善治

角川書店(角川グループパブリッシング) 2011-02-10
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大局観とは「木を見て、森を見る」力のことだ。世の中には「木を見て、森を見ず」というと言葉がある。人間的に視野が狭くなって、全体像が見通せない状況への警句だが、これの対応が案外難しい。世の中には全体像を意識するあまり、「地図を見て、木を見ない」人も多くいる。そして、そういう人の世界観はたいてい現実と乖離している。

大切なのは、木を見てから森を見ることだ。言い換えれば、一つ一つの木から「森」という概念を立ち上げていくことだ。決して地図上の森から、木を統計化していくことではない。

そのため、大局観を得るにはどうしても一つ一つの木を見る行為__「経験」や「体験」が必要になってくる。そして、その大局観の有無がバイタリティー溢れる若者と、長い経験を積む古者の力の差となって現れてくる、と著者は書いている。

体力や手を読む力は、年齢が若い棋士の方が上だが、「大局観」を使うと「いかに読まないか」の心境になる。将棋ではこの「大局観」が年齢を重ねるごとに強くなり進歩する。同時に熟練になり精神面でも強くなると六十歳、七十歳になって、この「大局観」は戦うための柱となる。

本書は長年将棋の世界に身を置いている著者が語る二つの「大局観」がテーマになっている。一つ目は、将棋の対局の中での「大局観」。もう一つは、人生の中での「大局観」。それぞれは互いに独立しているというよりも、絡み合い、影響しているように感じられる。

勝負の中の大局観

勝負事には「定石」がある。将棋、囲碁、チェス、麻雀などもそうだが、株式投資などにも一定の「パターン」があって、それは他の方法よりも勝率が高いとされている。

では、それらの「定石」を全て知ることができれば、最強の一人に名を連ねられるかというと、そうではない。

まず第一に定石は一定の条件下の中で有効な方法だ。決して万能の魔法ではない。たいていの定石は「無難」な選択であり、現状を維持したり、優位を保ったりするのには使える。しかし、相手を揺さぶったり、局面を根本から覆すような力はない。

同様に、例外に弱いことも定石の弱点である。定石という一連の流れは、こちらのレスポンスと相手のレスポンスがあうん呼吸で一致しているときに成立するものだ。相手が予想外のリアクションをしてくれば、打つ手が無くなる。これは麻雀とかあるいは投資の世界の対多数(あるいは不特定多数)の場合、顕著な特徴になる。

最後に、「定石」は常に生まれ、変化し続けているという点が上げられる。そんなものを一人の人間が完全に知る事など不可能だ。不確定性原理ではないが、不定石性原理とでも呼べるものが勝負事の世界にはある。

総じて言えるのは、「定石」は重要だが、それだけで勝負に勝てるわけではないということだ。

今は定石を使うべきなのか、どこを攻めるのか、どこを守るのか、定石を使わないとすればどのような選択をするか、そういった判断を下すためには、勝負の全体像を掴まえる必要がある。形勢はどちらが有利なのか、勝負のスピードは早いのか遅いのか、相手はじれているのか、このまま進めばどういった状況になるのか、そういったことを感覚的に掴まえられるならば、無駄な選択肢を外すことができる。そこが相対的に経験を積んだ者の力となって現れてくるわけだ。

ビジネスの世界でも「集中と選択」が掲げられるが、それを適切に行うためには現状の把握と、今後の展開をイメージできることが必要だ。そこを考えない「集中と選択」は単なる無謀と見分けがつかない。

現状の状況と、自分の状況認識の間に、少しでもズレがあると、そこから導かれる決断にもズレが生じる可能性が高くなってしまう。方向性を見る「羅針盤」の正確さが必要だ。

もちろん、有効な方法を一つでも多く知ることが手っ取りばやい成長の方法であることは間違いない。ただ、そこで足止まりしていると、フレームワークを沢山知っていながら、活用できないビジネスパーソンと同じ状況になってしまう。必要なのは状況を判断する力であり、時として自分で定石そのものを作り出す力だ。それは単に知識を吸収するだけではたどり着けない。

人生の中の大局観

この大局観を、将棋の試合一局とか、仕事のプロジェクトの中で活用することもできる。が、それぞれの行為も人生の中の一つの「局面」でしかないという視点に立てばもっと大きな「大局観」が生まれてくる。

著者は、新しい手を見つけたら実際の対局(タイトル戦を含む)で試してみるらしい。もちろんそれはリスクある行為だ。しかし、そのリスクを積極的に取っていくことが重要なのだ。

むしろ、リスクを取らないことが最大のリスクだと私は思っている。
なぜなら、今日勝つ確率が最も高い戦法は、三年もたてば完全に時代遅れになっているからだ。

(中略)

来年も再来年も書き続けるためには、長期的な展望に立って新しい戦法に挑戦してゆく前向きな姿勢が必要だ。

この考え方にたてば、日常わたしたちに降りかかってくるありとあらゆる出来事と、その失敗の全てが成長のための材料になり得る。そして、そう考えられるならば、新しいことにチャレンジすることにも意欲的に取り組めるだろう。

自分にはちょっとできないかもしれないな、と感じたとしたらまさにそれが挑戦すべきことなのだ。そのチャレンジで全財産を失うので無いかぎりは積極的に挑戦したほうがよいだろう。それはどんな些細な事でも構わないと思う。

自分にできることを、自分のできるレベルだけでやり続けていてもいつかは壁にぶつかる。たとえ「ちょっとできないかもしれないな」と感じたとしても、その裏には「なんとなくやってみたい」という気持ちが潜んでいるはずだ。尊重すべきはそちらの方の気持ちだろう。

挑戦し、失敗したとしてもそれは一つの財産になり得る。少なくとも、大局観で人生を見ることができているならば、ありとあらゆる経験が「一手」に過ぎない。つまりは「負けるも価値」というわけだ。

さいごに

著者は将棋の世界について、次のように書いている。

現代の将棋は、刻々と変化している。そのなかで自分なりのスタイルをどう貫き、新たにどんなスタイルをつくり上げていくかが大事なのだ。

これはビジネスの世界でも、卑近な例ではBlogを含むソーシャルメディアの世界にも通じることだろう。そして、それは単純に流行を追いかけてフラフラするのとは真逆の行為だ。

また、「大局観」は多くの経験から培われるもので、自分以外の人間の過去のケースをたくさん見ることでも磨かれていく。いわば、「大局観」には、その人の本質的な性格や考え方がとても反映されやすいのである。

棋士が過去の棋譜を見返すように、私たちは過去の人類の「ケース」を多くの書物によって知ることができる。それは技術の伝達と同じくらい__あるいはそれ以上に__重要な文化的遺産と呼べるだろう。

そして、今はじまろうとしているライフログ習慣は、自身の経験を見返すことにつながっていく。「自分以外の人間の過去のケース」と「時系列で重ねられた自分の過去のケース」。この二つを活用できるとすれば、一体どのような大局観が生まれるのか。今から楽しみである。

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