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まあこういった話に正面きってぶつかっていくとたまにとんでもない壁にぶつかることがあるのだが、せっかくトラックバックをいただいたことだし少し書いてみよう。
まず、靖国神社の問題は「政教分離」というのはまったく関係ない。
まったくと書くとブーイングがくるかもしれないが、日本国憲法第20条の信教の自由、政教分離の項目は
1 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
2 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
3 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。
この1及び3に抵触するのではないかという意見ももちろんあるのだが、首相が神社で手をあわせる行為を、日本人が見て「宗教的活動だ」と思うかというと、やはりそうではないだろう。この政教分離の項目が禁じているのは、国が特定の宗教(宗派)を優遇することである。
宗教意識の低い日本国内では靖国以外にあまり問題にならないが、他国ではこれはかなり重要なことである。
まあ、しかし靖国神社の参拝は政教分離とは関係ない。
で、次に、対中国である(対アジアではない)。
この問題に関して中国がやめろといってくるのは内政干渉に当たるし、また日本がそれに従う必要もない。
結果的に、靖国問題をどう取り扱うかというのは、自国の中で何を尊重し、何を切り捨てていくかという選択でしかない。当然価値観で主義主張も違うだろう。
私自身は「A級戦犯」は既に裁かれているわけだし、その霊はやはり丁寧に扱われてしかるべきだと思う。日本人の意識としてもそれはほれほど不自然ではないと思う。
大体 重光葵元、賀屋興宣、岸信介(この人はちょっと違うが)などは、政治の第一線で活躍していた。そしてそのことに誰も文句を言ってこなかったわけだ。
また、ドイツのニュルンベルク裁判における主要戦争犯罪人と極東国際軍事裁判(東京裁判)のA級戦犯は同列に扱うことはできない。主要戦争犯罪人というのは「人道に対する罪」を問われた者である。A級戦犯はその意味合いでは「平和に対する罪」を問われた者といえる。
誤解を恐れず言えば、A級戦犯は戦争に負けたからこそ裁かれたと言えなくもない。
私は戦争を肯定するものではない。が、日本が通過してきた歴史のなかで避けがたい状況もあったのではないかと思う。それぞれの人間がそれぞれの思いで行動してきた結果があの戦争であったのだろう。もちろん戦争の中で行なわれた人道をまったく無視するような行為はきちんと罰されてしかるべきである。
が、それ以外の点では日本は戦後の賠償を終わらせてきていると私は思う。
私の中で、この靖国の問題は対外的にどうということではない。
トラックバック先から最後の段落を引用させていただくが
たとえ自分たちが歴史を大事にしなくても、少なくともアジアの国々は歴史を大切にする。それによって自己を定義し、コミュニティーの結束を高め、自分たちの利益を拡大していく。彼らの国益はともかく、自分たちの国益の維持、または拡大を目指すなら、彼らと交渉することは必至だし、尊重しなければ自分たちも尊重されない。少なくとも歴史を忘れないことは「尊重する」ことの第一歩ではないか。
結局、戦後の教育において我々はあまりに日本の近代史を無視しすぎてきたのではないかと思う。「戦争の責任」というものを全てA級戦犯に押し付け、その事実を忘れ、経済活動に専念し続けてきた。その結果が今の日本なのであろう。
どのような主義主張でもかまわないが、「靖国」を忘却してしまうことだけはしてはいけないと思う。個人がどのように思い、活動を、し優先順位をつけるのか個人の自由である。が、やはりこの国が歩んできた歴史というものだけは忘れないようにしなければいけないし、その意味でも首相の参拝というのはよい意味合いもあると思う。
う~ん、重大な問題が脱落しているように思います。
日本はサンフランシスコ講和条約を受け入れることにより、その11条で、東京裁判の結果を受け入れています。
つまりは戦犯に押しつける形での国の免罪を自ら受け入れています。
その事実を国として受け入れることで国際社会に「復帰」したことを忘れている。
それを無に帰することがどうなのか。
東条英機氏の親族の発言の要旨は「A級戦犯の分祀は東京裁判を受け入れることになる」というものです。ようするに講和条約を否定するものです。
それに乗るのは私には道理でないと思えますが。
靖国神社は設立から現在まで、宗教の場というよりは政治の場でありました。
靖国神社のあり方は、日本人の古くからの宗教観とは外れていると思います。
つまり、人が死んだら、魂は「ある理由で亡くなったものを一緒くたに祀っている神社」へ行くのではなくて、「先祖代々の墓」へ行くものではないかと。
昔から、戦死者の菩提を弔うのは権力者しかできませんでした。
明治の国体が現在も曲がりなりにも維持されている以上、明治政府が作った靖国神社を(法的な問題は別として)一宗教施設として見ること自体、無理があるのではないかと思っています。
それもこれも含めて、日本人が「大東亜戦争」という事象について、自身できちんと後始末をつけられていないことが問題なのでしょうけれども。
>wolfyさん
A級戦犯の魂が入っているという靖国を公人が参拝することが、すなわち講和条約を無に帰すということにつながるのでしょうか。
つまり、罪はもう裁かれたのではないか、ということなのですが。
あと、分祀そのものにはあまり意味がないように思えます。宗教側の解釈の問題が結構あるとおもうので。
>karesansuiさん
そもそも、靖国とか大東亜戦争について本当に何も知らない世代が多いような気がします。というか私の高校時代でもそのような歴史はかるーくスルーされてきたような気がします。
あの戦争は一体なんだったのか、歴史的な経緯は、そのときの世界の状況は、そして日本は、・・・。といったことを教えていかない限り、日本人は戦争について本当に考えることはできないのではないかと思います。
靖国は軍の「戦死者」を祀るところであるにも係わらず、「法務死」である戦犯を祀るところにも問題があり、行軍での「病死者」も祀られないし民間人の「戦死」も祀られないのに、何故彼らだけが?という個人的な疑念も持っています。
日本遺族会の中には、先の「A級戦犯の分祀が東京裁判の受け入れ」という意識と「分祀は敗戦という結果の受け入れ」と言う意識すら実際にはあります。悪いことをしていないから負けていない、という程度の方もまだまだ多く、負け→贖罪の構図自体否定される方も多いです。歴史を見る限り戦争が政治的には結果責任であり、勝者が歴史を作っているのですが、それも認めていない。その結果が経済的な「敗戦」に繋がったとも思うのです。
結局は政治家がこの遺族会の怨念にまきこまれているだけなのですが、靖国はそれを利用しているように見えるのがあざとく小生には見えます。
実際にはA級戦犯の合祀した政治家が靖国を参拝すること言うこと自体、そのバックグラウンドがあるからこそで(日本遺族会は自由民主党を支持している)、合祀して以降、靖国への天皇陛下の参拝が行われないということが、靖国の独善を表しているように小生は感じます。
そういうA級戦犯の1978年の合祀の経緯があっても、公式参拝するということは、政治的に受け入れた(領土問題でも禍根を残した点で不備の多かったとは言え、国際社会に復帰した)サンフランシスコ講和条約を無視することであると感じます。それと合わせて「焦って」調印した吉田茂氏と当時の自由党の責任は重いと小生は感じています。
>wolfyさん
法務死については解釈の問題も絡んでくるので、一概にどう、とは言いにくいのですが、病死者などについては多少の考慮があってしかるべきだとは思いますが、しかしそれで靖国の参拝を否定することは難しいような気もします。
日本遺族会サイドについては情報をあまり持っていないのでなんともいえません。
あくまで、こちら側からの意見ということになります。
靖国の独善性を踏まえたうえでも、我々が戦死者に対して敬意を持ち続ける必要性はあるように思います。そういう意味で、分祀というのはあまり意味が無いと思いますが、別の追悼施設というのは、とりあえずの外交上の問題解決にはなるかもしれないと思います。
(下の続き)
実際問題、講和条約はあれがぎりぎりのところであったのではないかと私は思います。あの時代の空気のなかで、「仕方がなかった」ような気がします。
講和条約については、もう少し煮詰めて書きたいなと思います。
グタグタの意見にお付き合いくださってどうもありがとうございます。
靖国神社とサンフランシスコ講和条約の歴史
これも昨日、夜中にテレビのチャンネルを変えていたら筑紫さんが司会のニュース23に元・警察庁長官、元・内閣官房長官のあの「カミソリ後藤田(後藤田正晴)」さんがイ…
Rashitaさん、こちらこそお付き合いいただきありがとうございました。
主軸は同じなのでしょうが、立つ場所が違えば国内でも見解は異なるのですから、
国同士で同じ歴史観を持てというのはほぼ不可能でしょうね。
いずれにせよ、日本という国はこのような政治や天皇や宗教の問題をタブー視して
まともに語り合うすべを余り持っていませんでした。
その事が最大の不幸であり、今は逆に語る場があることは良いことなんでしょうね。
>wolfyさん
やはり今までの状況がちょっと異常すぎたのでしょうね。きちんと語れる場を作ってそのなかで、きちんとした価値観を持つということが無いと、おそらく始まらない話なんだと思います。
自分の価値観を認め、他の価値観もみとめた上で、解決策を模索していく、というスタンスでない限りは一生平行線のまま進んでいくか、一方的に要求を聞くだけの解決策しか持たない国のままであり続けることでしょう。
しかし、なかなかうまく書くのが難しい問題です(笑)