久々に政治ネタから離れてみる。最近そういう話題ばっかりだったのは、ほとんど他のソースをチェックしていなかったから、という一言に尽きる。全てスパロボのせいということにしておこう。
さてさて、日本語にはいろいろな表現があるのだが、「気」という言葉はその後にいろいろな述語が後ろについてくる。
その中で、”気を遣う”という言葉(使うではない)と”気を配る”という言葉はどことなく似ている雰囲気がある。しかし違う言葉なのだから、どこかニュアンスが異なるのだろう。
ちなみに、”気を使う”というのと”気を遣う”というのでは意味合いが違ってくる。気を使うだと、何か気功のようなイメージになってしまう。(そもそも”気を使う”という日本語が存在するのかどうかも知らないが)
閑話休題。
”気を遣う”という言葉と”気を配る”という言葉のニュアンスの差はどのようなものなのだろうか。
どちらかというと”気を配る”というのは個人が複数の人間あるいは集団に対してなんらかの精神的なケアを行なうという感じがするし、”気を遣う”だと個人対個人というイメージがある。
どちらにしろ、日本の社会ではこういう回りに対する配慮というものは重視されてきたように思える。特に会社に依存する個人の場合は、そういう能力が長けていることは非常に重要なスキルであったのではないかと思う。
が、最近は”気を遣う”人も”気を配る”人も減ってきているのではないだろうか。
特に”気を配る”人が少なくなってきているような気がする。別にその事態を嘆いているわけでなく、そういった必要がこの社会から減ってきているのだろうという事を認識しているに過ぎない。
単純に自分勝手な人間が増えている、ということではなく、不特定多数の人間に対して、ケアをすることにメリットを感じられない、ということなのであろう。利害がある関係にだけ”気を遣い”、それ以外の人間には感心すら持たないという状況が生まれてきてるのだろう。
おそらく、会社人や政治家という組織の中でもそういう流れが加速していくのではないかと思う。
それはネットによる対人関係環境のせいなのか、それとも社会と個人の関係が変わりつつあるせいなのか、それはわからない。
こういう環境では”気を配る”人間は、大体損をするだけなのだが、それは性だから仕方がない、といってしまうとそれまでだ。
この文章に特にオチみたいなものもない。これも一種の気配りができていないBlogといえるかもしれない。