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日本は「スペンド・シフト」しうるのか

以前このブログでも紹介した『スペンド・シフト』という本がある。アメリカの消費者の行動が変化してきているというテーマだ。
※詳しくは、こちらの記事をご覧いただきたい。

スペンド・シフト ― <希望>をもたらす消費 ―
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その変化は、非常に好感が持てる。「不景気だから」とか「不況だから」といった理由を持ち出して、ただ不満を積み重ねるのではなく、自身の行動の変化の中から少しでも希望を作り出そうというポジティブな姿勢だ。

それは、苦境の中の生き方としては、ごくまっとうなものに見える。しかしながら、これはあくまでアメリカの話だ。

不況や不景気という話では日本も同じである。アメリカの消費者や企業がシフトを経験しつつあるように、日本も同じようにシフトしつつあるのだろうか。あるいは、それは可能なのだろうか。

その視点に立ったとき、勢いよくブンブンと首を縦には振れない気がする。少なくとも目をキラキラさせながら「日本も、きっと同じようになりますよ」と楽観的に考えるのは難しい。

どこに帰るというのか?

一番引っかかったのは、「原点回帰」という問題だ。これは言葉を換えて『スペンド・シフト』の中で何度も取り上げられている。

「新世紀世代」は「最も偉大な世代」の価値観に原点回帰しているということだ。

「新世紀世代」は2000年台に成人を迎えた世代。「最も偉大な世代」は大恐慌に耐えて第二次世界大戦を勝ち抜いた世代だ。世代の関係でみれば、「新世紀世代」の祖父母が「最も偉大な世代」に当たるだろう。

人間というものは、基本的に「モノマネ」で構成されている。子どもが言葉を覚える例を挙げるまでもない。ゼロから何かを生み出すというのは、脳の機能の位相がちょっとずれている人にしかできないこと、というのは言い過ぎかもしれないが簡単なことではない。

これは、「生き方」に関しても同様だ。人が選ぶ生き方というのは、多かれ少なかれ他の誰かの生き方の影響を受ける。

「新世紀世代」の若者(と書くと、私もそれに含まれるが)は、親の世代の生き方を見て育ってきた。しかし、それは「もうダメだ」という現実を突きつけられた。ああいう消費のやり方や価値観では幸せにはたどり着けない、そう結論づけたのだろう。

一つのロールモデルが破棄された空白には、別のロールモデルが入り込む。それが立派な祖父母達の生き方だった、ということだろう。

これは非常にわかりやすい。一つのやり方がダメだったから、別のやり方を試そうということだ。

繋がっていない世代

同じ現象を日本に当てはめた場合どうなるだろうか。

日本における「新世紀世代」も上の世代のロールモデルが機能しないという点では、米国の若者と変わらない。しかし、そのロールモデルを棄却したときに、代わりにはめ込むものが何かあるだろうか。

米国では、祖父母の世代を「最も偉大な世代」と呼んでいる。それがまともな手段だったのかどうかは別として、事実としてあの戦争を「勝った」ことは確かだ。その国の中で一定の評価があるのはおかしいことではないだろう。

対して日本はどうだろうか。日本においては戦前(戦中)と戦後が隔絶していると言っても良いのではないだろうか。今の世代と「地続き」なのは団塊の世代までなのではないだろうか。それよりも上の世代は「プレ団塊の世代」や「焼け跡世代」と名前が付いているが、それだけだ。

もちろん、これは極端な話をしていることは十分理解している。ただ、それを承知で言えば、今の20代は祖父母の世代がどのような価値観をもっていたのかをあまり知らないのではないだろうか。仮に知っていたとしても、それに「誇り」を抱いているだろうか。少なくとも、米国のように「最も偉大な世代」の価値観に原点回帰するためには、「最も偉大な世代」自身が自分たちの価値観を前向きに捉えていなければならないだろう。
※もう一度書くが、これはあくまで世代的な話であり、個別の人がこれに当てはまると言っているわけではない

私は、現実の姿を知っているわけではない。ただ、上記のようなことを考えると「原点回帰」的な価値観のシフトは難しいのではないかと思う。

行き場のないジレンマ

ロールモデルの問題を別の側面から捉えることもできる。そうすると、新たなジレンマが登場する。

現代の世代の上の世代、つまり団塊の世代は、高度経済成長を形作ってきた世代だ。その中では基本的に「消費は美徳」として捉えられてきたといって良いだろう。

で、それは日本独特の価値観だったと言えるだろうか。それは工業化を推進するために必要な価値観ではなかったか。極端な言い方をすれば、アメリカ型の価値観の模倣(あるいは輸入)と言えるだろう。

つまり、戦前から戦中にあった価値観をゼロベースにして、工業化にマッチするロールモデルを模倣したということだ。輸入元は、やはり米国だろう。

今の世代のジレンマはここから生まれる。一つ上の世代のロールモデルはバツ印がついた。もう一つ上の世代のロールモデルにはアクセスできない。そうなったときに、ロールモデルの欠如を埋める先をどこに求めればよいか。

よく情報の入ってくる米国はどうだろうか。
※『スペンド・シフト』という本自体、まさにこういう本だ。

しかし、米国の生き方を模倣する手法はすでに上の世代が行っている。それはある程度の結果を残したものの、どうも「日本型」とは呼びがたいものが出来上がった。米国の価値観をそのまま取り入れるのは、ちょっと違うのではないか。

上の世代の価値観がダメだとして米国型の価値観を仕入れようとしても、それはまさに上の世代がやってきた手法だった。これがジレンマだ。こうなると行き場が無くなる。

そうなると、世代的にかなり離れている故人にロールモデルを求める動きもでてくる。しかし、全ての人が「〜を変えるぜよ」という生き方にマッチするわけもない。仮にマッチしたとしても暑苦しくて仕方ない。

ソーシャル・ロールモデル

以上、かなり悲観的なことを書いてきたが、私自身は別に悲観的には捉えていない。

だいたい、国民が共通的に使えるロールモデルなどもはや機能しないのではないかと思っている。また誰しもが「偉人的」な生き方ができるわけでもない。しかし、ロールモデル無しで生きて行くのは、なかなかしんどいことでもある。

そういう状況で、ソーシャルメディアというのが一定の価値を持つのではないだろうか。

多くの人が存在する社会の中では、何%の割合でちょっと変わった人がいる。そういう人は、苦心して(あるいはむちゃくちゃ楽しんで)自分なりの生き方を創り出す。それはマスメディアで取り上げられたり、自伝本がベストセラーになったりはしないだろうが、一つのロールモデルとして十分に機能する。

「あの人面白い生き方をしているな」というのがソーシャルメディアを通して、伝播されるわけだ。その中で、自分の価値観にマッチするロールモデルを選択すればよい。

今までの社会では、誰かの生き方や価値観というのは、直接会って話が出来る人か、あるいはマスの媒体で取り上げられるとんでもなく有名な(あるいは成功した)人のものしか知り得なかった。でも、それは確実に変化してきている。

その変化の中では、多くの人が右を向いているからといって別に向きたくもないのにそっちを向く必要は無い。堂々と左斜め上を向いている人を見つけて、自分も一緒にそっちに視線を向ければよい。

ネット文化、あるはソーシャルメディアの登場で人々のインプットが個別化・多様化しているように、ロールモデルの選択も同様の方向性を辿るのだろう。そして、情報のインプットも主体的に(あるいは選択的に)行わなければならないと同じように、ロールモデルも自分自身で選択しなければならない。

画一的に機能するロールモデルが失われたことは、もしかしたら少し悲しいことなのかもしれない。しかし、今は、親や祖父母以外のロールモデルを求めることができる。超が付くぐらい有名な人以外の生き方もいろいろ知ることができる。

ただ、その選択には自分の責任が伴う。おそらくその「責任」を背負える覚悟があるのか無いのか、というのが大きな差になってくるのだろう。

さいごに

さて、表題の問題に戻ろう。日本はスペンド・シフトしうるのか。

可能性はあると思う。今でも多少変化の芽は出てきていると思う。時代の変化と共にそれが大きくなっていくことはありうる。ただし、それが米国と同じ形になるかどうかはわからない。

少なくとも、「みんなもスペンド・シフトしましょう」という呼びかけで起きるものではない。それは単なる輸入であるし、しかも画一的な(もっといえば押しつけ型の)価値観でしかない。つまり、根本的なレベルで何も変わっていないということだ。

つまり、「どんなロールモデルを意識するのか」ではなくて、「どこからロールモデルを得るのか」が変化すれば、きっと日本もスペンド・シフトしていくのではないかと思う。

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