0-知的生産の技術

アウトプットと「自分」

ブログ「Lifehacking.jp」さんで次のようなエントリーがあがっていました。

「私」を付け加えることが究極の知的アウトプットであることについて

このエントリーでは、自分で「コンテンツ」を生み出すことが<クラウド時代の知的生活>になるのではないか、と書かれています。このあたりの感覚はまったく同意見です。

私が使っている「知的生産」という言葉も、この「コンテンツを生み出す」という感覚に近いものがあります。

このあたりの話はまた別の機会で掘り下げるとして、今回はすこし違った視点から__「自分」というものについて__ちょっとだけ考えてみたいと思います。

「自分」はどこから生まれるのか

上の記事で堀さんは次のように書かれています。

ブログを書く上で、私はこれを「Output = Input + 自分」という式として理解しています。Input は RSS やツイッターなどで耳にした情報です。そこに「自分はこう思った」「自分にはどう有用だった」という「自分」の要素を足してこそ、情報が作品化します。


「Output = Input + 自分」

という式を見て、「うん、そうだな」と思いつつも、これを式変形して

「自分 = Output – Input」

という風に捉えることもできるのではないか、と感じました。

つまり、「自分」というものは、アウトプットとインプットの差異の中で定義できるものではないか、ということです。

年末も忙しい時期なので、「自分」という言葉の哲学的考察にはまり込むのは止めておきますが、簡単に言えば、「自分」という認識が成立するのは「他人」が存在するからです。自分とは「違う」存在がいてこそ、「自分」という存在がはじめて線引きできるようになります。

違い、差異、境界線、線引き、ATフィールド・・・と表現はなんでも良いですが、「自分」という存在を確立させ、際立たせているものが「違い」です。

同じ記事からもう少し引用します。

誰か著名な作家や、思想家や、芸術家や、建築家がそれを作るのを待たずに、私たちは自己流でコンテンツを作ってネットにそれを流通できます。「私ならこうする」がそのまま流通する時代なのです。

逆から言えば、「私ならこうする」という違いがないと、「自己流」とは呼べないわけです。他人の方法の丸パクリを「自己流」とは呼べないので、これは当たり前のことです。

ほとんど一緒だけど、ちょっとだけ「違う」。その「違い」が自己流(その人らしさ)を定義づけています。

「自分」は後から生まれる

で、何が言いたいのか。

それは、まったくゼロの段階で「自分らしさ」について考えすぎない方がよい、ということです。でないと、なかなか動き出せません。

情報を仕入れて、何かについて書いてみる。ぐしゃぐしゃでも、まとまっていなくても、統一性がなくても、全然OK。短くても長くてもNo Problem。とりあえず、自分が感じたこと、考えたことをできるだけストレートに出すようにする。

逆に言えば、「感じること」「考えること」に敏感にならなければいけない、ということでもあります。

その過程を通して、じわじわと生まれてくるものが「自分らしさ」なんだろうと思います。
※もちろん、「文章を書く」ということに限定されるわけではありません。

そして、表現したものを後から確認する中で、「あぁ〜、<自分>ってこんなやつなんだな」ってことがわかったりもします。

つまり、確固たる「自分」を先に作って表現していくというスタイルが存在するわけではなく、表現し続けていく中で「自分」というのが見いだされるのではないか、ということです。

さいごに

で、最終的には「皆さんアウトプットしましょう」というありがちな結論に落ち着きます。

それは外向きに「自分の価値」を広げていくことにもつながりますが、それと共に自分が「自分」を知ること(あるいは定義づけること)にもつながっていくと思います。

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