一瞬のうちに目の前が真っ暗になることがある。それは絶望という言葉すら頭の中から消えうせてしまうくらいの衝撃的な出来事であったり、あるいはそうでなかったり。
人が死ぬということはそういう衝撃的な出来事である。もはや取り返しが付かないという意味において、人間が体験できるもっとも深遠でそして第三者的な出来事である。
人は死を意識できる動物である。それは唯一の存在かもしれない。
皮肉めいた言い方をするならば、死に向かいながら生きていく存在、それが人間である。
しかし、今の日本は徹底的といえるほど、死というものを回避しようとしている。
それは死を避けているというよりは、死を意識しないように必死になっているといえるかもしれない。
人が死を意識しなければ、どうなるか。永遠の存在となり、そして何かが曖昧になる。
この何かというものは表現することが難しい。
人が死をはっきりと意識したときに引かれる線とでも言うべきなのだろうか。
語りうる言葉をあまり持たない私では精一杯の表現である。
死を意識しない人間にとっては、今日という日も明日という日も違いは無い。
明日はやがて今日になり、そしてまた新たなる明日がやってくる。それは至極当然のことである。
本来人は一日ごとに今日という日を迎えられることに感謝してもよいくらいであろう。
一度眠りに付いた人間が、再び覚醒して、太陽の日を浴び、時計のねじを巻く。
ごくごく当たり前に繰り返されているがゆえに、そのことの本当の価値に気がつきにくい。
しかし、そんな繰り返しは人生において何一つ保証されていないのだ。
明日という日が、永遠にやってこないという可能性は常に人生において付きまとっている。
しかし、それはあまり見たくないものだし、考えたくも無いものだ。
そして、今の日本社会において目をそらしたければ、いくらでもそらせる対象は存在する。
そうして目をそらして日々を送ることは「堕落」ではない。また「退避」という行為でもない、ましてや「退行」でもないし、「進化」でもない。
あえて何か呼び名をつけるならば、「夢」ということになるだろうか。
多くの人々は夢の中に生きているのだ。
眠りという仮想的な死の中で見る夢と同様に、死を避けた生というのはある種現実感が無い。
あるいは現実感があったとしてもそれは非常に薄いものになる。
しかし、人の生そのものに価値があるとするならばそれはそれでかまわないということになる。
「生きているだけで十分意味があるんだ」
という言葉は確かに人の心に響く。そしてそれはまた真実でもある。
人は生きているというだけで、十分価値がある。それは内側に可能性というものを秘めているからだ。
その生が他者にプラスなりマイナスなりの価値を生む可能性を秘めているからこそ、生に価値が生まれてくる。
というか価値という言葉自体が他社依存的である。
問題なのは価値があるか無いかということではない。
それは、自分の満足度の問題なのだ。
永遠の夢の中で生活する人間は満足を感じることが難しい。あるいは感じれたとしてもその満足度は平たく薄いものかもしれない。
自分の人生にある種の線を引いた人間はほんのかすかなことでも満足をあるいは幸福を感じることができる。その感覚は小さなものかもしれないが、しかし確かなものだ。
その小さく確かな感覚をもとにして、もっと大きな感覚へと広げていくことができる。
それは自分だけの満足度にとどまるかもしれないし、他者へと広がっていくかもしれない。
そのどちらしろ、そういう感覚を持った人間は確かな存在である。確かとは信頼できるという意味ではない。
ただ、「確か」なのだ。
結局のところ死というものをどのように捉えるのか、というのは人生におけるかなり重要な価値観を決定する物である。それは人生の終焉なのか、新たなるスタートなのか、それとも生をいかすスパイスなのか。
そういう考えは、もちろん「宗教的」である。本来的な意味においてはやはり宗教は死というものと密接に結びついているからだ。
ただ、今の日本では宗教的な色合いを持つものは、その中身がどうあれ極端に嫌悪されるか、あるいは盲目的にあがめられる。それは本来必要な宗教的感覚とは異なったものだろう。
こういう状況は針が極端なほうに触れやすい可能性を常に秘めている。しかし、宗教復興などと騒ぎ立てたところで意味は無い。それは今のところ日本においては形骸化してしまっているものだ。
そういうものは今や「心理カウンセラー」が担当する問題である。
しかし、それは宗教とはまた役割が違うものである。
宗教と呼べるものが不思議なのはそれが一般汎用的でありながら、個人に属するものであるということだ。
まあこの辺は今回のテーマとはあまり関係が無いので省略する。
話を戻そう。
生と死についてのイメージを考えてみる。
ある人は生という直線があって、その線が尽きた後が死というイメージを持つかもしれない。ある人は生という円があってその外側が死かもしれない。またある人は生という円の内側に死というものを定義しているかもしれない。
誰が正しいのかを決めることはできない。正解と呼べるものは無い。
ただ、どういう考え方が自分にとって楽なのか、あるいは意味があるのかを考えることはできる。
すくなくとも、そういう思考が何かしらのスタートになりうると私は強く信じている。
随分難しい話ですね。
人は産み落とされた瞬間から死の床へ向かって墜ちている。
大切なのはどうもがくかという点かなと。
一度しかない人生であり、生まれ変わることなどないのだから精一杯生きればいいんだけど、今の日本は生きていることに価値を見出せない人が増えましたね。
豊かさが生み出す、矛盾というかなんというか・・・・
貧困の方が生きることに貪欲という皮肉さ。
まとまりませんね・・・・・・・
>梟の目さん
正確な言い方ではないと思いますが、豊かさがもたらす弊害というものは確かにあると思います。あるいは豊かさによって見えにくくなるものということかもしれません。
しかし、貧困な時代に戻ることはもはや不可能な現代社会において、何が人生の基盤になっていくのだろうか、ということを考えてみたいな、とおもっております。
あのね”あのね!!
家の前で一匹の白いネコを見つけた。
まだ子供なのだろう、私を見つけると
「ナーモ、ナーモ」と鳴きだした。
ネコ好きの苺にはたまらない(*゚∀゚)
煮干を厨房から持ってきてあげると喜んで食べた☆
ネコネコネコ!!!!!あぁ・・・かわいいわぁ・・・
一緒に寝たいなぁ、ゴロゴロしたいなぁ・・・
でも苺の家はレストランなので動物は飼えません・・・(´Д⊂ヽ
しばらくすると満足したのか近くの空き地に帰っていきました。
またきてね・・・。