6-エッセイ

(タイトルなし)

やるべきことは、まだまだ残っているがとりあえずひと山を越えた。

本当は今日はブログの更新はパスしようかと思っていたのだが、
ひと息ついて、最初にやりたくなったことがブログを書くことだったので、
勢いに任せて更新してみるとしよう。

まるっきり推敲していないので、読みにくい文章ができあがるだろうし、
そもそも何かテーマがあって、キーボードに指を置いたわけではない。
ただ、なんとなく文章が書きたかっただけだ。
そういうことって、あるでしょ?

私は常々更新のための更新はつまならいと思っていて、何をどう考えても
このエントリーは更新のための更新だと思うのだが、不思議と嫌悪感みたいなものはない。
それを考えると、人類が宗教を発明(もしくは発見)したのはすごいことだと思う。
そこには確かに、目には見えないが感じ取れる「効果」があるのだ。
それをバカにすることは、クイズ王を打ち負かしたワトソンぐらいにしかできない。
まあ、ワトソンはバカにするなんてリソースの無駄遣いを自分から行うことはないだろうが。
しかし、それを言えばワトソンが自分から行うことが何かありえるのだろうか、という疑問も湧いてくる。

知性とコンピューターの違いとは何だろうか。
人間とコンピューターの違いは?
人間と人間らしさ?
人間と人間っぽいもの?
人間と人間であったもの?

まあ、いい。

シャーロックホームズは、直感で論理の階段を三段飛ばしに駆け上がり、
ワトソンはその後を、ゆっくりとついていく。
誰が名付けたのかしらないが、実に良いセンスのネーミングだ。
まあ、ホームズと名前を付けていたら、世界中のシャーロキアンから抗議のEmailが山のように、いや、雪崩のように押し寄せてきただろうが。

名前をつけるのは本当に難しい。
名前を与えられると、そこには存在空間的な重みが発生してしまう。
避けようもない事態だ。

それは重しになり、値札になり、呪いになり、祈りになる。

祈り。

もっとも安価で、もっとも他人任せで、もっとも力強い、人類のツール。
人間という体系を一歩外から眺める、聖なる地図。

その地図の上では人間は点でしかない。
でも、点であることで救われる。
人であることは、時として人には重すぎる荷物なのだ。

まったくとりとめもなく、またとりとめようという意志も存在しない文章なので
ここまで読んでいる人はもう街中の純喫茶ぐらいの数しかいないだろう。

普段私は書かないが、お読みいただきありがとうございました、という言葉を
ここに記しておこう。

顔も見えぬ聞き手の存在を想像できることで、癒される何かは確かにあると思う。

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