「人間は習慣の束である」
と昔の哲学者は言いました。なかなか重い言葉ですね。
また別の哲学者はこう書いています。
繰り返し行うことが、
われわれの本質である。
ゆえに、美徳は行為ではなく、
習慣なのである。
どちらの言葉も意味しているところは同じでしょう。
物書きのイメージ
以前、「”物書き”ってどんな人かなぁ〜」というのを想像したことがあります。
世の中を見渡してみると、作家やジャーナリストなど文章を書くことで生計を立てている人は山ほどいます。そして、その作風や思想、性格や信条、はたまた執筆に使うツールなどは人それぞれです。共通点を見出せる予感もありません。
ただ、一つ言えることがあるとすれば、その人たちは「文章を実際に、そして定期的に書いている」ということです。
当たり前じゃん。
確かに、当たり前の話です。
しかし、どれほど優れた文章を紡げる力があろうと、どれほど豊かなイマジネーションに恵まれていようとも、実際に文章を書けなければ物書きであり続けることはできません。
結局、私の「物書き」のイメージは、毎日一定量の原稿を書き続ける人、に落ち着きました。文章を書きたいなと思っている人でも、文章を書く力を持っている人でもありません。どのような形であれ、「文章を書く時間」を一日の中にしっかりと確保して、それに取り組んでいる人です。
つまり、物を書くことが習慣になっている人です。
一応、ブログを更新し続けてきたことで、それは自然と身についていました。現在メルマガの運営が続けられているのも、毎日ブログを書いてきた積み重ねが大きいでしょう。もちろん、一冊の本を書く(つまり、数万字のまとまった文章を書く)という場面でも、その習慣は大いに役立っています。
ドラッカーの言葉
ドラッカーは次のように書いています。
知力や想像力や知識は、あくまでも基礎的な資質である。それらの資質を成果に結びつけるには、成果をあげるための能力が必要である。知力や想像力は知識は、成果の限界を設定するだけである。
優れた知力を持っていると、優れた成果を生み出せる可能性がある、というだけのことです。知力がそのまま成果に結び付くわけではありません。もちろん、それはたくさんあった方がよいのでしょう。しかし、それがあればすべてうまくいく的な存在でないことは確かです。
成果をあげる人に共通しているのは、自らの能力や存在を成果に結びつけるうえで必要とされる習慣的な力である。(中略)私の知る限り、知能や勤勉さ、想像力や知識がいかに優れようと、そのような習慣的な力に欠ける人は成果をあげることができなかった。
この「習慣的な力」がどのようなものかは、ドラッカーの著作を参照くださいませ。
ともかく、”何か”があっても、”何か”がないとあまり用を為さないわけです。問題はどちらに焦点を合わせるか、なんですが、それこそが思考の習慣と言えそうです。
さいごに
ドラッカーはこうも書いています。
私は、成果をあげる人間のタイプなどというものは存在しないことをかなり前に気づいた。私が知っている成果をあげる人たちは、その気性や能力、仕事や仕事の方法、性格や知識や関心において千差万別だった。共通点は、なすべきことをなし遂げる能力をもっていたことだけだった。
これを読むと、ある種のビジネス書は「なすべきことをなし遂げる能力」とはほとんど関係ないなぁ〜、という気がします。あくまで(読んでいないので)気がするだけですが。
▼こんな一冊も:
人間悟性の研究 (1948年) |
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デイヴッド・ヒューム 福鎌 達夫
彰考書院 1948 |
ニコマコス倫理学〈上〉 (岩波文庫) |
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アリストテレス 高田 三郎
岩波書店 1971-11-16 |
プロフェッショナルの条件―いかに成果をあげ、成長するか (はじめて読むドラッカー (自己実現編)) |
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P・F. ドラッカー Peter F. Drucker
ダイヤモンド社 2000-07 |
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