5-創作文

墨流しと写真

アランが久々に枯山水を眺めるために寺に足を踏み入れると、そこには先客がいた。青年だ。大学生ぐらいだろうか。日本人はカジュアルな格好をしていると年齢がよくわからない。

青年はひなたぼっこをする猫のように静かに胡座をかいていた。ぼーっと視線を庭に向けている。かなり長い時間この場所にいるのかもしれない。

ふと、アランはその青年の目が気になった。彼は目の前に広がるわびさびに感嘆しているという風ではない。しかし、座っていること自体に苦痛を感じている風でもない。彼の目には風景が映り込んでいるが、彼自身は何か違うものをみてるような気がした。奇妙な青年だ。

青年は、ポケットからごそごそとiPhoneを取り出した。何かを操作し、iPhoneを庭の方に向ける。カシャっ、という音が庭にたたずむ静寂に吸い込まれていく。再び何かを操作した彼は、iPhoneをポケットにしまい、今度は小さなノートを取り出した。そして、ペンでなにやら書き付け始める。

アランは、決してうるさくはないが、自分の存在を主張する程度の足音で彼に近づく。ノートから視線を外し、こちらの姿を確認した青年は、軽く会釈をする。
「スマートフォンと手帳の両方を使っているんだね」
話題の手探りに、アランは質問を投げかけた。どことなく、「わざわざ手帳なんか持ち歩いているんだね」というニュアンスがあったのは、アランが生粋のモバイルオタクであったからだろう。
そのニュアンスを感じ取ったのか、青年は軽く笑みを浮かべながら__なかなか素敵な笑みだ。きっと年上の女性に受けるに違いない__、「だって、手帳で写真はとれないでしょ」と混ぜっ返した。
アランも苦笑を浮かべる。
「確かにね。だったら、その手帳は何を”撮影”しているんだい」
アランが問いを重ねる。もはや修辞的要素は無い。青年は手にしたノートに目を落とし、もう一度微笑みながらアランに言った。
「”墨流し”はご存じですか?」
「いや、浅学にして存知あげない」
青年は一瞬きょとんとした。
「あぁ、せんがく、ですか。外国の方のわりには、変わった言葉遣いをされますね。一瞬漢字変換できませんでしたよ」
「日本の文士に興味があってね。語彙の多くはそこから学んだ。それに格好いいじゃないか」
「意味が通じれば、ですけどね」
「通じない言葉を使うほど、ありがたがる輩が多いとどこかで読んだ覚えがあるのだが」
「過去の遺物ですよ。そんな権威主義者はね」

青年は、手短に”墨流し”を説明してくれた。幅が広く底が浅い容器に水を満たし、染料のついた筆をその水につける。水面にはその色が広がっていく。そこで円の中心にあたる部分に、別の松ヤニがついた筆を付ける。すると、松ヤニが水をはじきながら同心円状に広がる。結果として、一番外側の染料が円を描く線のように残る。後はそれを繰り返したり、あるいは風を立てたりして、独自の模倣を描く。一度作った絵柄は、二度と再現できないらしい。ゆらぎの存在を考えれば、それもそうだろう。
「とても興味深い技法だね」
「それで終わりではありませんよ。模様を描いた後に、和紙をその水面にかぶせるんです。そうして紙の上に模様を写し取るわけです」
「なるほど、二度と再現できないものを、紙の上に保存するわけか」
「その通りです。もし、和紙に写し取るんじゃなく、仮にその容器を上からカメラで撮影したらどうなるでしょうか」
「より完璧に保存できるような気がするね。データは多ければ多いほどいい。再現性が高まる」
カメラだってそうだ。解像度が高いほど、よりクリアな、よりリアルな写真が撮れる。
「ええ、それはそうです。でも、僕からしたらそれは完璧すぎるんです。写真だと、模様だけでなく水や容器そのものも、あるいはそれを作っている人の手だって全てが残せます。でも、和紙だと模様しか残せない。しかも、水の上と和紙の上の模倣の映え方は微妙に違う。ある意味で、とても不完全なデータです。でも、時々、僕は思うんですよ。僕たちの心にとって、そのどちらが本当にリアルなのか、ってことを」
「リアル?リアルというのはいかに現実に近づけられるかってことじゃないのかい。たとえば、目の前に広がる枯山水の一つ一つのオブジェクトの配置、質量、色合いを数値化して、3Dデータとして再現する。これがリアルじゃないのかい」
「確かに、現実として僕たちの目の前にはたくさんの石や砂が存在しています。それは否定しようもありません。でも、その事実とは別に、僕が感じられるリアルというのは僕の心の中にしか存在しないんじゃないかって気がするんです」
「つまり、物理的現実と、心的リアルは別のものとして存在している、ということかね」
「むしろ、物理的現実なんて科学者のおもちゃでしかないのかもしれませんよ」
アランは首を横に振った。青年の主張がうまく飲み込めない。現実というのは、一つの共通舞台にさまざまな人間が登場し、そこで”世界”という演劇を演じていることではないのだろうか。彼の主張だと、演劇はその舞台の上ではなく、それを見る観客の中に存在することになる。はたしてそんなことがあり得るのだろうか。
アランが沈黙し、青年もそれに続いた。いくばくかの時が流れる。アランは時計を外してきたし、青年もiPhoneで時間を確認するようなことはしなかった。僕のリアルはどこにいってしまったのか、彼のリアルはどこにいこうとしているのか。アランは間違って設計された迷路の中に入り込んでしまったような感覚を覚え始めていた。
「そうそう。最初の質問ですが、僕の答えはこうです」彼はアランを現実に引き戻すかようにあの素敵な笑みをもう一度浮かべた。
「この手帳は何も”撮影”していません。むしろ、写し取っているんですよ。僕の心を」

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