0-知的生産の技術

メモが分岐させる世界線

メモ分岐について考えてみよう。

メモする・メモしないの行動の選択が、世界線に与える影響を考察するのだ。

状況設定

まず、「あ、あれしなきゃ」と思いついたとする。その事柄は誰かに命令されたものではない。依頼でも、懇願でも、請求でも、宿題でもない。自分自身だけで完結すること。やらなくても誰も困らないこと。そういう事柄だ。

あなたには二つの選択肢がある。

A.その事柄をメモする。
B.その事柄をメモしない。

どちらでもあってもよい。やっても、やらなくても誰にも迷惑はかからないのだ。

とりあえずどちらかを選択したとしよう。一つの選択に対して二つの結果が想定できる。次の図に簡単にまとめてみた。

それぞれチェックしてみよう。

4つのパターン

「メモしない」・・・たまたま想起

メモしないことを選択した場合、何かのきっかけでやろうとしていたことを思い出すことがある。それは100回に1回ぐらいかもしれないし、それよりも多いかもしれない(少ないかもしれない)。ともかく、以前やろうとしてたことを思い出すことは確かにある。

するとどうだろう。「そうそう、あれやろうと思ってたんだ」。こうなる。なんとなく「俺って冴えている」感が漂う。大切なことはちゃんと覚えている。そいう感覚だ。

「メモしない」・・・完全に失念

メモしないことを選択した場合、たいていはここに落ち着く。つまり、何かを思いついたことそのものを忘れてしまう。だから、「忘れている」という感覚すらない。ニコニコ平和に過ごせる。

「メモする」・・できた!

やろうと思ったことをメモしたとする。そして、それを見返しながら、しっかりと行動に移す。自己肯定感はアップするだろう。

が、「メモに書かれたことをやる」というのは、「思い出した大切なことを思い出してやる」というのに比べると、多少その肯定感は小さいかもしれない。

「メモする」・・・できない

メモしたからといって、全ての事柄ができるわけではない。時間不足、能力不足、機会不足、資金不足、いろいろな不足が考えられる。すると、「やるべきこと」がメモされているにもかかわらず、それができていない自分と向き合わなければいけない。ちょっと辛い。

さいごに

全ての分岐を検討してみると、「メモしない」生き方の方が心穏やかに過ごせる可能性が高いことがわかる。だから、多くの人はメモを取らないわけだ。ごくごく、自然な選択と言えるだろう。

もちろん、心穏やかに過ごせることと、何かしらの成果を挙げられることはまったく別の事柄である。たまたま思い出せることだけしか実行しないとすれば、成し遂げられるものの数はそれほど多くはないだろう。それでいい、という判断もあるし、それじゃあダメだ、という判断もありうる。

おそらくメモするというのは、ある種の反自然的な行為と言えるのかもしれない。しかし、資本主義だって、情報化社会だって、ある意味では反自然的な行為だ。そもそも理性だってそうかもしれない。

というわけで、別に結論めいたものは何もない。

1件のコメント

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です