6-エッセイ

「昔、この駅で降りたことがある」

以下の記事を読んでいて、ふと頭に浮かんだことがある。

小さな自己表現のメリットとリスク(ライフハック心理学)

それは、記憶に関する自分の表現が徐々に変化してきているな、と感じた時のお話だ。

リコール

電車に乗っていた。大阪からの帰りの電車。

読んでいた本から顔を上げ、窓の外の流れる風景に目を向ける。川が流れていて、それほど広くない国道がそばを通っている。ホームセンターとパチンコ屋がぎりぎり町の体裁を保っている山の中の田舎だ。快速では止まらない駅が近くにあったはずだ。

その時、私は「昔、この駅で降りたことがある」と思った。よく分からないままに駅を下りて、川沿いの道を歩いたのだ。高校生ぐらいだっただろうか。

でも、そう思った瞬間、私は頭の中で上の文章をリライトした。「昔、この駅で降りた記憶がある」、と。

そうした後、さらに上の文章に二重線を引き、さらなる推敲を加える。「昔、この駅で降りた記憶があるような感覚がする」。長いな。しかし、記憶という言葉を使うのだから、多少長くなるのは仕方がない。いっそ「昔、この駅で降りたような気がする」でもいいかもしれない。

事実と記憶と感覚

心理学とか脳科学系の本を読んでいると、事実と記憶と感覚が、簡単にイコールで結べないことを(いやおうなしに)気がつかされる。

もちろん、日常生活で「昔、この駅で降りたことがある」と事実っぽく断言しても、問題は起きない。だいたい私の周りには誰もいなかったのだから、「いや、そんなことはありませんよ。別の駅ですよ」と反論してくる人間もいない。

それでも、実際にそうであったことと、そういう記憶があることと、そういう記憶があるような感覚があることは、別物だ。ただ、後者二つは非常に見極めにくい。

事実と記憶が一致していないことはよくある。そして、記憶があることと、記憶があるような感覚がすることもまた、一致しないことがある。

もしかしたら、私はどこの駅にも下りていないのかもしれない。ただ、映画の見過ぎでどこかの駅に下りたという記憶がねつ造されているのかもしれない。実際に体験していないのだから、記憶が存在するわけはないのだが、記憶があるような感覚が生まれることは充分に考えられる。

ただ、少なくとも、自分一人だけでそれを検証することはできない。記憶と記憶っぽいものは私の中では区別が付かないのだ。自分の記憶のログを取っていれば、何とか検証できるかもしれない。そういう事柄だ。

しかし、自分が今そのように感じているという部分だけは一応真実だ。だから、その部分だけを取り上げるしか無くなる。

さいごに

事実と記憶と感覚は、少しメタ的に見れば、事実と記憶の入れ子なのかもしれない。

つまり、「記憶がある」ということもまた、事実かどうかの検証対象になるということだ。もちろん「記憶がある」というのはある種の感覚でもある。「記憶がある」という言葉が何を意味するのか、はっきり定義するのは難しい。

それはそれでややこしいので、むしろ事実と感覚という風に捉えた方がすっきりするのかもしれない。「昔、この駅で降りたような気がする」というのが、感覚的表現だ。

こんな風に、自分の記憶について考え始めると少々混乱しはじめる。

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