物書き生活と道具箱

二冊の手帳を比べるとき

inspired by ほぼ日手帳の代替わりと少し言い知れぬわくわく感(なんかカラフルな生活)

12月。それは手帳の代替えシーズンです。もちろん、人によっては3月かもしれません、あるいは、すでに新しい手帳を使っている人もいるかもしれません。しかし、私の中では12月がその季節なのです。

古い手帳を読み返し、新しい手帳の準備を整える。別れと出会いの儀式。定められた12月のイニシエーション。

二冊の手帳を眺めると、実に不思議な感覚が立ち上がります。

片方には、経験してきた一年が提示されています。どれだけ白紙率が高かろうが、その手帳は確かに一年の時を経験してきました。紙が劣化し、インクがかすれ、カバーに汚れが落ちる。その変化から得られる視覚的情報は、私たちに時間の存在を主張します。

経験された一年、決して繰り返されることのない時間の存在を。

もう片方には、手つかずの一年が仄めかされています。まだ(ほとんど)書き込みされていない新品の手帳は、メタファーとして手垢の付いていない時間の存在を私たちに示してくれます。今年経験してきたのと同じ重みを持つ、新品の時間が一年分そこに提示されているわけです。

二つの手帳を並べるとき、私たちは時間の連続性、過去と未来、そして現在の自分を考えないではいられません。

過去は固定されたものであり、改変は不可能であること。
未来は白紙であり、私たちの歩みを待ち望んでいること。
過去の延長線上に未来は存在するものの、それを意識する現在の自分が方向性に関与できること。

そういったことが、思い浮かぶわけです。

古い手帳を参照しながら、新しい手帳に情報を書き込むとき、私たちはある種の形而上的な経験を通過します。それは、ロマサガ2の皇位継承のように、少しばかりのもの悲しさと、心躍る期待が混じり合った複雑な経験です。

古くさいアナログの紙の手帳は、忌々しき「重さ」を持っています。その重さは、純化された理性が忌み嫌う身体性を想起させます。言い換えれば、それは現実世界の中に自分を位置づける重しになるのです。

大げさに聞こえるでしょうか。確かに、人は夢の中だけでも生きていけるのかもしれません。その二つを区別する意欲を放棄した世界では、重さなど何の意味も持たないのかもしれせん。

時間にはもともと重さなどありません。ようは脳がそれを感じるか、感じないのか、という差があるだけです。

時間は流れるものであり、自己という存在はその流れには逆らえず、やがて朽ちていく存在である。

そんなことを純化された理性が受け入れるはずがないでしょう。老いに醜さを感じる人が決して鏡を見ないように、断固たる意志で拒絶し、無視するはずです。その先には理性の楽園が待っているでしょう。身体性が追放された世界です。

少なくとも、私はこちら側に踏みとどまります。苦渋の体験が待っていようとも、苦難にさいなまれようとも、もしかしたら最後の最後に愛が待っているのかもしれません。待っていないのかもしれません。別にどちらでもいいことです。

実に意味不明なエントリーでしたね。

とりあえず一つ言えるのは、やっぱり手帳が好き、ということです。

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