ふと思い立ち、『ザ・ゴール』を読み返していました。エリヤフ・ゴールドラット氏の傑作です。
ザ・ゴール ― 企業の究極の目的とは何か |
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エリヤフ・ゴールドラット 三本木 亮
ダイヤモンド社 2001-05-18 |
物語仕立てになったビジネス書としては、最上位に入る作品と言ってもよいでしょう。
ある企業の工場長が、物理学者の教授と、工場の同僚たち、それに家族にも支えられながら、「生産性」を大きく改善していく、というストーリーです。
※ちなみに、「生産性」を括弧でくくったのには理由がありまして、それが気になる方は本を直接ご覧ください。
この本の優れた点は、単純なサクセスストーリーではない、という点です。
主人公であるアレックスは、工場の状況を改善しようと試行錯誤を繰り返します。そして、それは現実と同じように思ったとおりにはうまく進みません。いくつかの失敗も体験します。その失敗の体験と、そこからの脱出、というプロセスを繰り返しながら、工場を建て直し、そしてある種の思考アプローチ(本書では思考プロセス)を身につけていきます。
その失敗という影の部分が、物語に厚みをもたらしています。そして、それはそのまま本の物理的な厚みにもつながります。本書は500ページを超える作品で、書店の棚差しでもわりと目立つボリュームがあるのです。
ここで、一つ疑問が湧いてきました。
「これって、今の(忙しさに追い立てられているような)時代でも読まれるんだろうか」
と。
現代に『ザ・ゴール』は再誕しうるか
もちろん、本書はすごく売れています。2001年発売の本ですが、Amazonランキングはこの原稿を書いている時点で465位。まだ「時代を超えて」という表現は大げさでしょうが、長く読み継がれている本であることは間違いありません。内容的にも、小説的にも本書が優れている証左です。
しかし、しかしです。本書が2013年でも売れているというのは、「すでに売れた実績がある」という点は見逃せません。
私が気になるのは、たとえばポッとでの新人が、この本と同じぐらい厚みのある本を書いたとして、それが読まれるのだろうか(売れるのだろうか)という点です。まあ、昨今の市場の動向と出版社のマーケティングから考えれば、そもそも企画が通らないかもしれません。
では、KDPならばどうでしょうか。Kindleを使った自己出版でならば、無茶な企画も自由気ままに押し通せます。「読みやすい」「すぐに読める」ようなコンテンツが市場への解であるかのような時代に、『ザ・ゴール』なみのボリュームを持った本は、新規で受け入れられるのでしょうか。
何が、なぜ読まれるのか
そもそも、本当に「すぐに読める」ようなコンテンツが市場への解なのでしょうか。まず、そこから疑いの視線を向ける必要があります。
たとえばブログ。基本的には短い時間でささっと読める記事が「好まれる傾向」にあります。これは、自分のブログのアクセス数の傾向、あるいは他の人がブログについて語っていることからでも、ある程度見て取れます。
しかし、ある要素が「好まれる傾向」にあるからといって、その逆の要素が絶対的に疎まれる、というわけではないでしょう。ブログ全体を見渡せば、長文のこってりエントリーでもアクセス数を稼いでいる所はありそうです。ただし、それも「すでに人気効果」がある点は見逃せません。誤解を招く表現を使えば「権威」、穏やかな言い換えをすれば「信頼」があるからこそ、読まれている部分はあります。
その点を除けばどうでしょうか。こってり系のエントリーは読まれるかもしれないが、どうしてもニッチにならざるを得ないような気もしてきます。『ザ・ゴール』ほどの支持は取り付けられないかもしれません。
音楽のデジタル化は、聴く人の裾野が広がると同時に、「アルバム」という単位での視聴経験を減少させています。ゲームであれば、手軽に、短時間で遊べるものが好まれているようです。
※ここは説明が十分ではなくて、しかもそこにヒントがあるのですが、今回は割愛。
忙しい現代の我々の消費する文字コンテンツも、同様の流れに巻き込まれ、こってり系のコンテンツは海の藻屑と消え去ってしまうのでしょうか。
一つの厚みからの解放
一つ朗報があります。それは、KDPであれば、「本の物理的厚み」は制約要因にはならない、という点です。
分厚い本は、置き場所も困りますし、持ち運ぶのにも不便です。それになりより、価格が跳ね上がります。KDPはそれらを気にする必要はありません。
たぶん、紙の本を本屋で買うときは、内容だけではなく、価格と本の厚みみたいなものも、朧気に計算要素に入れているかもしれません。しかし、KDPで真っ先に目が行くのは「値段」でしょう。それが他のKDP本と足並みが揃っていたら、特に目立つ要素は無くなります。
つまり、書店で『ザ・ゴール』が目立ち、それと共に、「あの本ちょっと分厚いから、読めそうにない」という敬遠が起こりにくい、ということです。
その意味では、KDPは「分厚い本」がその他の本と同じ土俵に立てる可能性はあります。しかし、実際に読み始めて、最後まで読んでもらえるのかどうかはまた別の話です。
打開策への道のり
なぜ、短い時間で読める記事が好まれるのか。それは、「まとまった時間がとれない」からでしょう。
実際、iPhoneなどで情報をチェックしている人のインプットに当てる時間のトータルを計算すれば、十分な時間になるかと思いますが、それらが分断して存在している限り、「じっくり本に取り組もう」という気持ちにはなりにくいはずです。
※これは読書好きの人ではなく、ごく普通の人についてのお話です。
KDPによって物理的厚みがもたらす制約から解放されても、内容的な厚み(つまり読むのに時間がかかる)がもたらす制約はどこまでも付きまといます。
打開策?
もちろんあります。
「アイデアは遍在する」、と言ったのは他でもない私ですが(しかも、今初めて言った)、どのような状況でも「問題」を解決するのがアイデアの面目躍如です。
話は簡単です。ようは、厚みを持った物語を、消費されやすいように語り直せばよいのです。
どうやって?
それは、各自の宿題、ということで。
さいごに
すでに本を読む人に、読まれる本を提供する。これもこれで一つのアプローチです。
また、これから本を読む人、これまで本を読んでいなかった人、本なんて読む気がさらさら無い人に、読まれる本を提供する。これもアプローチの一つには違いありません。
ともかく、正解はありません。
やりたいことと、現実の間にギャップがあれば、それを埋めるのがアイデアです。それについて考えてみることだけでも、なかなか楽しいものがあります。
▼こんな一冊も:
Evernoteとアナログノートによる ハイブリッド発想術 (デジタル仕事術) |
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倉下 忠憲
技術評論社 2012-06-30 |
2 thoughts on “ボリュームある本の存在余地について”