7-本の紹介

【書評】ずる 嘘とごまかしの行動経済学(ダン・アリエリー)

「はい、皆さん。目を閉じて、頭を下げてください。
いいですか、決して周りの様子をうかがってはいけませんよ。
よし、じゃあね、先生絶対に怒りませんから。オフィスのコピー用紙をこっそり自宅に持って帰った人、正直に手をあげてください。出来心だっていうのは、先生も分かってるんです。だから正直に手を…」

オフィスの備品を「ちょっと拝借」した経験はお持ちだろうか。コピー用紙でもペンでもいい。本来許可されていないけれども、ちょっとした出来心というヤツで持って帰ってしまった経験だ。

別にそのことを糾弾するつもりはないので、ちょっと立ち止まって思い返して欲しい。その「拝借」の瞬間、あるいは少し後、どんな心理状況だっただろうか。

恐ろしいほどの罪悪感に苛まれていた?それとも、何かしらの「理由」を持ち出して正当化を試み、無事それに成功していた?

おそらく後者だろう。ようは、こういうことだ。

「ちょっとだけ悪いことをしている人は、自分が悪いことをしているとは思っていない」

むしろ、自分の持っている知識や創造性を最大限に発揮して「理由」をひねりだし、「自分がいい人である」というセルフイメージを堅持していたことだろう。

これを逆から眺めると、面白いものが見えてくる。

本書はそんな感じの本である。

ずる―嘘とごまかしの行動経済学 (ハヤカワ・ノンフィクション)
ずる―嘘とごまかしの行動経済学 (ハヤカワ・ノンフィクション) ダン アリエリー Dan Ariely 櫻井 祐子

早川書房 2012-12-07
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不合理的犯罪モデル

本書は『予想通りに不合理』の著者であるダン・アリエリー氏の新刊だ。相変わらずユーモアのある文章と独特な実験によって、行動経済学の知見を身近に紹介してくれている。

今回のテーマは「ずる」。人が嘘をついたり、ごまかしたりする理由が行動経済学的視点で解き明かされていく。

著者はまず、従来の合理的犯罪モデル(SMORC)に疑問を投げかけるところから話を始める。

人が犯罪を犯す場合、(1)犯罪から得られるメリット、(2)捕まってしまう確率、(3)捕まった場合に予測される処罰、の3つを考慮して実行に移すかどうかを決める、というのがSMORCの考え方だ。経済学における「人が何かを買う」モデルにとてもよく似ている。

しかし、ちょっとした実験によってこのモデルだけで100%説明しうるわけではないことを著者は示す。犯罪から得られるメリットがとても大きくなると、逆に人はそれを犯さなくなるというのだ。SMORCモデルでは考えられない行動である。

でも、ちょっと想像してみて欲しい。

オフィスからコピー用紙を「ちょっと拝借」する状況だ。その際、10枚ぐらいをカバンに入れるかもしれない。その枚数持って帰ったところで誰かが困るわけではない(と、あなたは心の中で自分に言うだろう)。では、それが100枚なら、あるいは開封されていない新品のコピー用紙セットならばどうだろうか。

少し気が引けてくるのではないだろうか。それはバレる確率が上がるからではないだろう。何となく嫌な感じがするはずだ。

あるいはこう考えてみるのはどうだろうか。

持ち帰るコピー用紙が購入できるだけの現金を、会社の小銭入れ(そういうものがあるとして)から拝借するのはどんな気持ちがするだろう。コピー用紙の場合と同じだろうか。きっと違う。「そういうことなら、私はしない」と言う人が多いかもしれない。金銭的被害は同じとしても、なんかちょっと嫌なのだ。

それは、ようするに「自分はいい人である」というセルフイメージが崩れてしまうからだ。それを保持するだけの「理由」が持ち出せないから、行動には移さない。

著者の言葉を借りれば、

むしろわたしたちの道徳感覚は、自分が違和感を覚えないごまかしの量と関係がある。要するに、わたしたちは「そこそこ正直な自分」という自己イメージが保てる水準まで、ごまかしをするのだ。

となる。

だから、単純に刑罰を厳しくしても、不正行為が抑制されるとは限らない。むしろ、「違和感を覚えないごまかしの量」に注目する必要がある。その指摘が本書の一番重要なポイントで、さまざまな方向性からそれが検討されていく。

「どうにでもなれ」

この「自分が違和感を覚えないごまかしの量」というのは、相対的な感覚である。だから、大いに揺れ動く可能性がある。

すると、二つ興味深いことが浮かび上がってくる。

一つは「どうにでもなれ」効果だ。

ある規範をわずかでも破ってしまうと(そして、それを自己イメージに取り込んでしまうと)、規範の残りの部分がほとんど機能しなくなってしまう。脱規範後の世界には違和感なんてまったくないのだ。

いったん自分の規範を破る(ダイエットでずるをしたり、金銭的報酬を得るためにごまかしをする)ようになると、自分の行動を抑えようという努力をずっと放棄しやすくなる。そしてそれ以降、さらに不品行なことをする誘惑に、とても屈しやすくなるのだ。

これが、高すぎる目標を掲げない方が良い理由だ。ハードルが高いほど、最初に躓きやすく、最初に躓くと、目標全体がもうどうでもいいことになってしまう。これは是非とも避けたいところだ。

では、一度破られてしまった規範はもう回復不可能なのかというと、そういうわけでもない。あえて名前を付ければ「リセット療法」が残されている。

「新年の目標を立てる」というのがそれだ。

例えば、ある年の一月に一年間の目標を立てたとする。しかし、それは最初の二週間で挫折してしまったとしよう。すると、残り11ヶ月と2週間ほど「どうにでもなれ」状態に置かれることになる。しかし、一年の切り替えのタイミングで、新しい目標を設定すると、それは前とは違う規範が生まれたことを意味する。

もちろん、これは心理的な現象だが、そもそも違和感が心理的なものなのだから、効果は確かにあるだろう。私たち人類が「節目」というのを設けているのも、文化的要素以外の「効果」がきっとあるに違いない。それは、おそらく自分の生活レベルでも応用できる話である。

感染する道徳

もう一つの興味深い要素が、「仲間」の影響である。仲間でもいいし、環境でもいいし、社会でもいい。著者は道徳の「社会的感染」という言葉を使っている。

自分に心理的距離の近い人の立ち振る舞いが、自分の行動の判断基準として機能する、という話だ。身近にいる人、よく行動を共にする人、尊敬する人たちの行動(もう少し言えば道徳的判断)が、自分のそれにも影響してくるようになるらしい。尊敬している人がやっていることならば、自分でそれを行う場合にも違和感を感じにくくなる、ということだ。
※これは『アイデンティティ経済学』にも通じる話である。

その視点に立てば、「個人の道徳性」についてだけではなく、「集団の道徳性」について考える必要があることも見えてくる。ある集団があって、そのうちの一人が「ずる」を行ったとしても、その一人だけに「道徳的教育」を施すのは、メスを入れる部分が誤っている可能性があるかもしれない。

これはわりと重い話である。簡単に言えば、リーダーという存在の責務の大きさが再確認されたということだ。ただそれよりも、現代では一人の人がより多くの人と「接する」可能性を持っている。道徳の社会的感染は、よりその影響力を増しているのかもしれない。

さいごに

なんとなく苦笑させられたのが、「創造性が高い人ほど、ごまかしが多い」というお話だ。

理由は簡単で、自分を正当化する「理由」を他の人よりも多くひねり出せるからだそうだ。なるほど、と頷くしかない。そういえば、高名な数学者にも極度の被害妄想に苛まれていた人がいたという話も聞く。創造性というのも扱いが難しいものである。

いや、そもそも「力」というものは一様にそうなのだ。力の強さだけではなく、その方向付けもまた重要な意味合いを持っているのだろう。

▼こんな一冊も:

アイデンティティ経済学
アイデンティティ経済学 ジョージ・A・アカロフ、レイチェル・E・クラントン 山形浩生、守岡桜

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