4-僕らの生存戦略

ゲームの選択

「働いたら負けかなと思っている」

実に有名な言葉であろう。特にネットの世界ではネタにされまくっており、知名度はMaxにも近い(かもしれない)。ネタ元やその歴史については、ニコニコ大百科にAA付きで紹介されているので、気になる方はご覧になるとよいだろう(参照)。

さて、この言葉。よく見てみると、なかなか面白い。ネタにしておくだけではもったいない気がしてくる。わりに謙虚だし、いろいろな問題の種にもなりそうだ。

すこしじっくり眺めてみよう。

まず注目したいのが、「働いたら負けです」と断定していない点だ。「働いたら負け、と思っている」ですらない。

「負けかな」と推量でワンクッション置き、「と思っている」であくまで自分の意見であることを表明している。実に謙虚だ。断定口調が説得力を強める、なんて方法論が浸透する世界では、ほとんどお目にかかれないような対象との距離感が見受けられる

この表現は言論的コレクトな態度と言えるかもしれない。だって、彼はまだ働いていないのだ。だから、実際にどうなのかを断定することはできない。自分の未経験の事柄は推量で語る。何もおかしいことはない。

が、この状態では議論も意見のすり合わせも起きないだろう。「〜と思っている」は、それ以上どこにもいかないのだ。僕には僕の考えが、あなたにはあなたの考えがありますよね、じゃあ。で会話は打ち切られてしまう。

ここに一つの世界があり、向こうに別の世界がある。その二つは永遠に交差することはない。誰も傷つけ合わないし、自分の世界が変化することもない。平和で静寂に充ちた世界だ。それもまた、一つの在り方なのかもしれない。

別の視点からも見てみよう。発言者は働いていない、ということだった。

であれば、この発言は「すっぱい葡萄」ではないか、という疑惑が立ち上がってくる。ようは「仕事」という葡萄が手に入らないから、「あんなものは美味しくもなんともがないんだよ」と価値を下げる認識を生むことで、心の中の合理化(認知的不協和の解消)が行われているのではないか、ということだ。

もしそうだとすれば、実際に働いてみることで、発言者の認識が変わる可能性はある。とりまく環境の全体を変えなくても、その部分だけアプローチすれば認識に変化を起こすことはできる。なんだかんだで葡萄を食べてみれば「美味しかった」と言うかもしれないのだ。

つまり、「働いたら負けかなと思っている」からといって、実際に働いてみたら「俺って負けてるな」と思うとは限らない、ということだ。この考え方を進めて行くと、若干パターナリズムちっくになりそうなので、とりあえずこの辺で留めておこう。

さらにまた別の視点からも探りを入れる。

発言中には「負け」という言葉が出てくる。当然、その反対側には「勝ち」がある。そして、その二つを平面に据える何かしらの「ゲーム」の存在も伺える。ゲームでなければ試合であってもよい。

「働いたら、負け」というのは、労働に参加することで、何かしらのゲームにおいて「負け」な状態に追いやられてしまう、ということだろう。発言者はそれを危惧している。

では、その「ゲーム」とは一体何なのだろうか。そして発言者はそこにどんなルールを見出し、どんな参加者の姿を認めているのだろうか。

実際の所、勝者と敗者を線引きするのは、ルールだ。ゲームを生み出すのはルールと言っても良い。同じ状況であっても、ルールが違えば勝ち負けの構図は簡単に逆転する。

また、参加者が一人のゲームには勝ち負けは存在しない。クリアかノットクリアの判定があるだけだ。疑似人格としてのCPUであれ、実際の人であれ、対戦相手が存在するからこそ、勝利と勝者が発生しうる。

彼が想定するゲームで勝っているのはどんな人なのだろうか。負けている人はどのぐらいいるのだろうか。

いや、そもそもこの社会には、そのゲームしか存在しないのだろうか。

というか、そのゲームに「勝った」らどうなるのか。何が得られるのか。天国へのパスポート?そして負けたらどうなるのか。地下で強制労働?そしてチンチロで大脱出?何も見えてこない。曖昧模糊の極みである。

究極的に開き直れば、「負けたっていいじゃん」とすら言える。確かにこのゲームでは負けてるけど、あのゲームだと勝ってるし、みたいなことが成立しうる。そうなると、ゲームとゲームの上位争いが始まり、それはまた別のゲームの始まりにもなる。実にややこしい。

それに「働いたら負け」が仮に正しいとしても、「働かなかったら勝ち」とすぐに言い切ることはできない。あくまで負けてはいないだけだ。逆に「働いたら負け」が正しくなかったとしても、「働いたら勝ち」とも断言できない。

何もはっきりしたものは立ち上がってこない。だからこそ、いつまでもそれはそこに居続けられるのかもしれない。

いろいろ考えてみたが、「はい、これが結論です」と提示できるものは何もない。J-popの歌詞風に「人生に勝ち負けなんてないんです」と言ってしまえば、それなりに格好いいのかもしれないが、それほど単純な事柄ではないような気がする。少なくとも、そういって何かが解決するような気はしない。

たぶん、人は誰しも(あるいは多くの人が)生きていく中で何かしらのゲームをプレイするのだと思う。目的を持って、ルール(規範)を定める。その中で、自分が何が出来るのかを追求していく。そういうことだ。肥大化してしまった人間の脳は、単に「生きていく」だけだと退屈を感じるようになっているのかもしれない。あるいは、取り囲まれている環境が問題なのかもしれない。そこら辺はよくわからない。

ただ、人間の欲求というのは、それなりに複雑だ、ということは言えるように思う。理解できないぐらいに入り組んでいるわけではないが、かといって「○○は〜〜です」などとセンテンスで表現できるものでもない。

人が人生の中にゲームを見てしまうのを止められないなのだとしたら、「勝ち」そのものは絶対的な価値ではない、ということを出発点にした方がよいだろう。むしろ、誰が決めた「勝ち」なのか、という方が遙かに重要な気がする。あるいは、どのように決まった「勝ち」なのか、であってもいい。

その点を抜きにして、「勝っているからどうだ」「負けているからこうだ」と話をしても、得るものは自分自身の心の強度補強ぐらいである。
※それが必要な時期があるかもしれないので全否定はしにくいのだが。

つまり、聞くべきは「あなたは勝っていますか?負けていますか?」ではなく、「あなたはどんなゲームをプレイしていますか?」ということなのだろう。もちろん自由回答欄の他に「ゲームなんてしていない」の選択肢も忘れずに付け加えないといけない。

自分のプレイしているゲームがはっきりしていたら、誰かに負け判定されても、おそらく気にならない。だって、こっちのゲームは続いているし、やることはまだまだたくさんあるんだから煩ってはいられない。周りを見渡せば、そういう人たちを何人か見つけられるだろう。
※良きにせよ悪しきにせよ。

旧来のメディアは、ゲームがあたかも一つであるかのような幻想を与えてしまうのが問題だった。逆に過剰なソーシャルメディアは複数のゲームが提示されすぎて、どのゲームを「自分のゲーム」にするのかを決めにくくしている。バランス、というのはなかなかに難しいものだ。

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