0-知的生産の技術

極端なコンテンツの必要性

本屋を回遊していると、「どっちやねん」と脊髄反射的なツッコミが口から出そうになることがたまにある。

「Aは要らない!」
「Aは必要!」

みたいな本が仲良く陳列されているのを見かけた時だ。

きっと、身も蓋もなく言えば、そういうのは状況次第なのだろう。depend on context.だから、ある意味では両方正しいのだと言える。それを、ちょっと極端な形で表現しているのが、そういうタイプの本なのだろう。

昔は、そういうコンテンツを「むむっ」と見てきたのだが、最近は案外そうでもないのかなと思い始めている。

大きな力

とても深くに沈んでいる人がいる。その人を地表面レベルまで引き上げたい。そんな時は、かなり大きな力が必要だ。あまりにも深く沈みすぎていて、弱い働きかけではぴくりとも上昇しないからだ。

あるいは、ふわふわと高く浮かんでいる人を、これまた地上レベルまで引き戻したい。これも同様に大きな力が必要だ。

最終的な目標地点が中間ぐらいでも、極端な所にいる人を動かすには、その反対側まで引っ張るぐらいの力が必要になってくる。中間ぐらいがいいんだよ、というのは中間付近にいる人には伝わる力であり、そこにしか伝わらない力でもある。

時に極端さも必要なのだ。

離脱ポイント

しかし、問題は用法・用量だ。

中間地点まできたのに、同じ力に引っ張られてしまっては、今度は逆向きの極端なところに行ってしまう。これはこれでやっかいだ。もしかしたら、極端と極端を往復しているような人もいるのかもしれない。

ある程度の所まできたら、「もう、そろそろいいかな」と極端なものと距離を置かなくてはいけない。ジェットソンだ。そうしないと、有用であったものが害を有してしまうことになる。

体調が優れないときには、薬を飲む。でも、元気になれば投薬を止める。ごく自然な風景だ。それは必要なくなったからというよりも、薬は量を過ぎれば毒になるからだとも言えるだろう。

どんなものでも、体に作用するものの扱いには注意深くならなければいけない。だったら、心に作用するものだって同様だろう。

さいごに

たぶん、世の中から極端なコンテンツが消えることはないだろう。悪貨が良貨を駆逐する、ということではなく、そこには薬のような存在価値があるからだ。

だからといって、フリー万歳と叫びながら野放しにして良いものでもないだろう。

コンテンツに評価付けして、適切に用法できるようにする何かが必要なのかもしれない。あるいは、使う人がそのリテラシーを高める必要があるのかもしれない。ともかく、コンテンツを(より広く言えば情報を)うまく使える何かがあればいい。

ただ、やっかいな問題が一つ残る。さて、自分はどんなコンテンツを生み出していくのか、だ。これについてはまだ判然とした答えは出ていない。

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