話を簡単にするために、
0
0.1
の二つが区別できないとしよう。
いや、こんなのぱっと見りゃわかんじゃん、という方は
0
0.000000000000000000001
の二つの違いでもいい。こちらなら「ちょっとわかりズレーかも」と感じるだろう。その感じを
0
0.1
に適応してくれればいい。
今のところ数字の大小はあまり意味を持たないので、特に問題はない。また、単位も気にしなくていい。とてもよく似た二つのものがあり、その違いはあなたには感じられない、というのを単に数字で表しただけである。
違いが感じられないもの=同じもの
すると、あなたの目には
0
0.1
は
0
0
のように見える。つまり同じということだ。違いが分からないのだから、当然である。こんな現象は世の中にたくさんある。
上の画像は横幅500pxでその下は499pxだ。ぱっと見ただけでは、同じにみえる。
あるいはこういうのはどうだろうか。
あるいはこういうのはどうだろうか。
上の文章はテキストのカラー指定が000000で、下は000001だ。人間の目で区別が付くはずもない。
こうした例は視覚情報だが、触覚でも味覚でも聴覚でも嗅覚でも同じことはある。感覚器官ならばごく普通の現象だ。
単純にこの二つだけを取り出し、比較すれば違いはまったく感じられない。
繰り返し足すことで見える何か
だからといって、本当の意味でこの二つが同じでないことは足し算してみればすぐにわかる。
0+0+0+0+0+0+0+0+0+0=0
0.1+0.1+0.1+0.1+0.1+0.1+0.1+0.1+0.1+0.1=1.0
片方は「0」のままであるし、もう片方は「1.0」になった。0と0.1の区別が付かなくても、0と1の区別は付く。つまり、両者はあなたの知覚上で別の存在に変化したのだ。
だから長期的な継続は大切ですよ、という教訓が出てくるのだが__そしてそれは重要なのだが__、本稿で重要視したいのはそこではない。
ここで注意したい点は、加算の途中まではこの両者はやっぱり同一のように感じられるということだ。つまり
0
0.1+0.1+0.1+0.1+0.1+0.1+0.1+0.1+0.1
はまだ同じなのだ。
これは0.1を加算し続けるという行為の効果が8回目まではまったく感じられない、ということを意味している。9回目の加算が終わると、突然0が1に変化する(ように感じられる)。当人からしたら実に不思議な体験と言えるだろう。
でも実際は目に見えない(私たちが認識できない)部分で継続的加算がなされ、それが積み重なってようやく認識できる変化へとつながっただけにすぎない。
モチベーションがどこにあるのか
「好きこそものの上手なれ」という言葉がある。
ある種の行為が好きな人は、0.1の加算に意味が感じられなくてもそれを続ける。なにせ楽しいのだ。だから9回目の加算まで放置しておいてもグングン突き進んでいく。そして1を生み出す。
しかし、行為そのものが好きでない人は大変だ。途中経過は、何かしら効果があるにせよ、そのことは自分で実感できない。何かとんでもなく無意味なことをしている感覚しかない。これで継続していくのは大変な困難である、
ここに、ちょっと変わったリモコンがあるとする。そのリモコンは電源ボタンを256回押さないと赤外線が飛ばない。
もしリモコンのボタンを押すのが大好きな人間がいるとすれば、彼はひたすらボタンを押しまくり、やがて「あっ、こうすればテレビ付くじゃん」と発見する。
しかし、ボタンを押すことそのものに興味を感じない人は、だいたい5回目ぐらいで「なんだこれ、壊れてるじゃん」とリモコンを投げ出す。
ようはそういうことだ。
細部に宿る何か
文章はたくさんの文で構成されている。一冊の本ともなれば、そこに含まれる文の数は膨大な量だ。
書き手は、一つの文をできるだけ読みやすい形にする。そのために句読点の入れ方を気にしたり、言葉の配置や言い換えを検討したり、漢字をひらいたりする。が、そうした奮闘でもたらされる読みやすさの向上は「ほとんどない」というレベルかもしれない。0.1である。
しかし、本に含まれる全ての文章にわたってそれを行えば1が生まれる。まったく別の読書体験を提供する本が生まれる、ということだ。
これは別に本に限ったことではない。コンビニの店作りだってそうだろうし、営業活動だってそうだろう。徹底した細部へのこだわりが、別の何かを生み出すことにつながる。
突然現れる1
そうして生み出された何かは、ある種の魔法のようなものである。
なにせ一つ一つの要素は取るに足らないものなのだ。0.1。有って無いような存在。それが蓄積することで初めて有る何かが生まれる。そして、それは必然的に言葉では説明できない。
なにしろ私たちの感覚の上では、
0+0+0+0+0+0+0+0+0+0=1
なのだ。これを魔法と呼ばず、なんと呼べばいいのだろうか。
もちろん、世の中にはとても目がいい人がいるように、0と0.1を識別できる人もいる。おそらく特定の分野でのプロとは、そういう感覚を持った人のことなのだろう。
その感覚は経験を積めば鍛えられるものであると想定できる。絶対音感は身につけられなくても、耳が鋭くなることは十分にある。しかし、その経験を積むという行為もまた0.1に属するものであろう。だから、「師匠の教えを愚直に実行する」という期間が必要になってくる。
何かを感じられるようになることは大切だが、その前に「信じる」というトンネルをくぐり抜けなければならないのだろう。
さいごに
非常に残念なことに、私たちには感じられない差がたくさん存在する。
つまりそれは、
0
0.1
0.000000000000000000001
の区別が付かない、ということだ。
0はどれだけ蓄積しても0である。0.1は少しの継続で意味ある変化が生み出せる。最後の数字の場合は、変化にかなりの時間を要する。もしその時間が自分の人生よりも長いものであれば、実質的に0と変わらない。
この3つが全て同じものに見えるわけだ。そう考えると少々恐ろしい。
おそらく、1を生み出したことがある人は、その時点から振り返ることで0と0.1の区別が付くのだろう。一つの戦略は、それを信じることで0.1的なものを知ることだ。が、人間のバイアスを考えればそれが本当に正しいのかどうかはわからない。ただ、信じるかどうか、というだけの話だ。
あるいはそんなことは気にもかけず、何回でも続けていける自分の好きな行為に没頭する戦略もある。というか、こんなものは戦略とも呼べない。たまたま1が生まれればいいな、というものでしかない。
でも、人生なんて__死を除けば__不確実性の代表なわけだから、どうしたって「確実に成功する方法」なんて見つけられない。それを探し回っている時間があるならば、電源ボタンをひたすら連打してみるのも賭としてはそう悪くないような気もする。もちろん、それが好きであれば、ということだが。
2 thoughts on “1に満たないものを繰り返し足していく”